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牛尾 久信(うしお ひさのぶ 生年不詳 ‐ 天正14年(1586年))は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。官位は左衛門尉。別名は太郎。牛尾幸清の子。子は牛尾久明。牛尾城城主。 == 生涯 == 出雲国の戦国大名・尼子氏の家臣である牛尾幸清の子として誕生。弟には牛尾幸晴、牛尾幸信(弾正忠)らがいる。 尼子家臣団において牛尾氏の次席は第3位で、牛尾氏宗家の嫡子である久信は伯耆国にて禄11,700石を与えられており、御手廻り衆の立場であった。 1560年に主君・尼子晴久により本城常光への支援を命じられ、父とともに出陣。同年、石見国の福屋隆兼が毛利氏に叛旗を翻した際にも、その支援にあたった。吉川経安が守る福光城を攻撃するも、撃退された。 1561年(永禄4年)、毛利元就の出雲侵攻により、居城である牛尾城にて毛利軍と一戦を交え、その後主君・尼子義久と共に月山富田城にて籠城する。そして尼子倫久を総大将とする出雲白鹿城への救援軍として出陣し、それを迎え撃つ毛利軍と死闘を演じた。しかし重傷を負い、自害しようとしたが説得され、毛利軍によって月山富田城へと移送された。1565年(永禄8年)、毛利軍によって月山富田城は完全に包囲され、兵糧攻めが開始された。士気も衰え、兵糧不足に耐えきれなくなった牛尾親子は城内から逃亡、毛利氏に降伏した。 その後は毛利氏に仕え、天正14年(1586年)に豊臣秀吉の九州征伐の先陣となるが、その戦いの最中、豊前にて討死したとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「牛尾久信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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