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牛島 春子(うしじま はるこ、1913年2月25日 - 2002年5月29日)は、日本の作家。福岡県久留米市出身。結婚後満州国に渡り、『祝という男』で1941年芥川賞次席。戦後、日本に引き揚げてのち、菅生事件などの作品を書いた。 ==生涯== ''以下は参考文献(多田、2009年)のpp.231 - 239による。'' 久留米市本町で洋品店を営む牛島丞太郎・あやめ夫妻の二女として生まれる。1927年、10歳年上の兄の影響を受け、処女作「合歓の花」を書く。1929年、久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)を卒業し、奈良女子高等師範学校を受験したが失敗。1930年、久留米の文芸誌『街路樹』に参加する。1931年に久留米の日本足袋(現在のブリヂストン)に就職。日本労働組合全国協議会(全協)専従者の勧誘に応じるが、専従者の軽率から組織が発覚し、半年で日本足袋を解雇される。 1932年、日本共産党に入党。1933年に逮捕される。1934年、福岡地方裁判所で懲役2年5か月の判決を受けるが、控訴。1935年長崎控訴院で懲役2年執行猶予5年の判決を受けた。1936年、牛嶋晴男と結婚して満州国に渡る。1937年、満州での第1作「豚」を書き第1回建国記念文芸賞の2等1席となる。(1等はない)この作品は勝手に「王属官」と改名された。1940年「祝という男」が芥川賞候補となる。1941年芥川賞次席となり『文藝春秋』に掲載される。 1944年には夫が召集され、1945年のソ連対日参戦と引き続く敗戦時には、幼児3人を抱え奉天、新京を転々とする。1946年、飯塚市にいた兄の家に、その後小郡の夫の生家に身を寄せる。1947年、夫の復員と共に西鉄小郡駅近くに転居し、執筆を続けた。1960年、取材を重ねた菅生事件に基づく『霧雨の夜の男 - 菅生事件』刊行。1980年には20号の油絵が新美術協会の「新美術展」に入選したこともある。 2002年12月26日、老衰で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「牛島春子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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