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牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。 == 生涯 == === 日中戦争まで === 佐賀県出身、陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。難関の陸軍大学校を中尉になってすぐに合格しており、荒川憲一は「下級将校時代はいわゆる優等生であったことは間違いない」と評しているが、陸大を卒業してからは18年間は専ら参謀本部・陸軍省勤務であった為、典型的軍人官僚とも述べている〔荒川(2002年)、152頁。〕。大田嘉弘によれば、若いころに陸軍省勤務であった経験が人事を軽く見る後の行動につながったという〔大田(2009年)、526頁。〕。少佐時代にカムチャツカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。 1937年(昭和12年)7月7日夜半に発生した盧溝橋事件では、現地にいた支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長であった。牟田口は、同連隊第3大隊長だった一木清直から、同大隊第8中隊が中国軍の銃撃を受けたとして反撃許可を求められ、「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)として戦闘を許可した。このことから、牟田口は、自身が日中戦争(支那事変)の端緒を作り出したと考えるようになった。もっとも、盧溝橋事件を中国共産党の謀略により中国第29軍が起こしたとする見解を前提にすれば、牟田口の自意識過剰とも評される〔土門(2005年)、132頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「牟田口廉也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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