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牧野 忠篤(まきの ただあつ、明治3年10月12日(1870年11月5日) - 昭和10年(1935年)4月21日)は、日本の華族、政治家。明治から大正、昭和前期にかけて貴族院議員を務め、長く政界の重鎮として国政に参画した。栄典は従二位勲二等子爵。旧越後長岡藩牧野家15代。 貴族院議員の他、新潟県長岡市の初代市長、帝国農会会長、日本中央蚕糸会会長、東亜同文会評議員、日本石油重役、華族世襲財産審議会会員、教科用図書審査員委員等を歴任する。 == 生涯 == 明治3年(1870年)10月12日、旧越後長岡藩の元11代藩主・牧野忠恭の五男として東京府に生まれた。明治11年(1878年)9月1日、父の死去により家督を継いで、実名の忠篤を名乗る。明治17年(1884年)の華族令施行につき、子爵を授与された。明治26年(1893年)慶應義塾別科(現在の慶應義塾大学)を卒業。 明治30年(1897年)より貴族院子爵議員〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』55頁。〕、明治39年(1906年)、旧藩所在地だった長岡町が市政移行する際に市長への就任を懇望され、初めは旧藩士の反対もあり固辞していたが、長岡町有志の熱意に推され、1年間限りとの約束のもとに同年4月1日に同市初代の市長に就任した。この際、内務省勤務にあった河島良温を同市の助役に迎え入れた。市長在任中は長岡市の将来について構想を練り同市の教育に注力し、東山油田の開発や長岡高等工業学校(現・新潟大学工学部)の設立に力を尽くしたとされる。 市長退任後は貴族院議員に再任され、帝国農会会長・大日本蚕糸会会長〔大日本蚕糸会長在任中に山口県下関市に建立の石碑の題字「蚕種渡来之地」を記している。〕などを勤め、日本の生糸業界を牽引。また、忠篤は戊辰戦争で山本義路(帯刀)が戦死し無嗣となった旧藩の家老山本家を、当時海軍勤務であった高野五十六少佐に家督継承させて再興するよう働きかけをして実現させている。 その他、貴族院の院内会派・研究会の幹事を長く務める。昭和10年(1935年)4月21日に死去。享年66。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「牧野忠篤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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