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牧野毅 : ミニ英和和英辞書
牧野毅[まきの つよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぼく, まき]
 【名詞】 1. pasture 2. grazing land
牧野 : [ぼくや, まきの]
 【名詞】 1. pasture land 2. ranch 
: [の]
 【名詞】 1. field 

牧野毅 : ウィキペディア日本語版
牧野毅[まきの つよし]
牧野 毅(まきの つよし、1845年5月(弘化元年4月)- 1894年明治27年)9月1日)は、日本の陸軍軍人。陸軍少将正四位勲三等大阪砲兵工廠提理。近代日本の砲兵術・製鉄事業の先駆けの一人〔『日本陸軍将官辞典』〕。
==経歴==
信州松代藩士大島規保の次男として生まれる。その後同藩士牧野大右衛門の養子となる。幼名は良平、後毅に改める。若くして佐久間象山に砲術を学び、その後江戸に出て開成所教授川本幸民より蘭学を、また海軍操練所において洋算を、幕府の大通辯福地櫻痴について佛学を修めた。明治元年(1868年)、戊辰戦争に従軍し、軍功を挙げた。
維新後は兵部省權大録となり明治5年(1872年)、陸軍大尉に任官。後に陸軍少将にまで昇進した。1874年(明治7年)、参謀局勤務を命ぜられ、品川、横須賀、山陰、山陽、北陸、西海諸道の海岸防衛策の策定に従事した。この間、東京湾海堡(台場)の建設にも参画している〔「要塞地帯について」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/fortress/sonota/fortzone.htm 〕。
1877年(明治10年)の西南戦争には第三旅団参謀を命ぜられ、反乱軍討伐に従事した。
1879年(明治12年)、大阪砲兵工廠提理に任ぜられた。当時の砲弾は佛式4斤砲で命中精度があまり良くなかった。しかし新式の鋼製砲を国産するにはまだその技術が未熟であったが、日本には江戸時代より豊富な銅を産出することを勘案し、新に15cm熕銅砲と7cm熕銅山砲の開発に努力し、1883年(明治16年)に完成した。その後1884年(明治17年)に強化鋳鉄を使用した海岸砲の開発に着手、1887年(明治20年)に28cm榴弾砲を完成した〔『日本人名大辞典』第5巻、583p〕 〔『大阪砲兵工廠沿革史』〕 〔 『大阪の産業記念物』28号〕。
1890年(明治23年)9月、大阪砲兵工廠提理を辞してより、年来の主張である製鉄工業の必要性を説いた。その結果、1892年(明治25年)6月、農商務大臣の要請により、海軍大技監・原田宗助、工科大学教授・野呂景義などとともに製鋼事業調査委員に任命された〔『官報』明治25年6月30日3頁〕。調査の結果は同年9月に農商務大臣に報告された。その後政府による検討を経て1893年(明治26年)8月、農商務次官斎藤修一郎を委員長とする26名の委員からなる製鉄事業調査会の委員に任命された〔『官報』明治26年8月22日1頁〕〔『日本近代製鉄技術発達史』〕。これらの調査を通じ、後の官営八幡製鉄所の設立に寄与することとなったが、志半ばにして1894年(明治27年)9月病没した。
子に、官営八幡製鐵所研究課長を務めた牧野立がいる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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