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県犬養 大伴(あがた(の)いぬかい の おおとも〔旧仮名遣いでの読みは「あがたのいぬかひのおほとも」〕、生年不詳 - 大宝元年1月29日(701年3月13日))は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は犬養(いぬかい)とも、名は大侶とも書く。姓は連、後に宿禰。県犬養多比の子とし、子に祢麻呂がいたとする系図がある〔鈴木真年『百家系図稿』巻9,県犬養宿禰(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)〕。冠位は直広壱、贈正広参。 == 壬申の乱での活躍 == 県犬養大伴は、壬申の乱が起こったとき、大海人皇子の舎人であった。大海人皇子が挙兵のため吉野から東国に出立したときに、皇子に従った二十数人の男の一人であった。『日本書紀』によれば、6月24日の出発のとき、大海人皇子は馬がなく徒歩で出発した。たまたま途中で県犬養連大伴の馬に遭遇し、それに乗った。妃の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)は輿に乗った。津振川で皇子の馬が追いつき、皇子はこれに乗りかえた。津振川は吉野川(紀の川)支流の津風呂川とされる。 現代の歴史学者の間では皇子の挙兵は入念に計画されたものだとする説が有力である。その説では、書紀には大海人皇子がやむなく立ったように書かれているが、それは大海人皇子の行動を正当化するためにした曲筆となる。行き当たりばったりで馬を得たように記されているのも、書紀の潤色になる〔亀田隆之『壬申の乱』109-110頁。倉本『壬申の乱』はこれに従う(65頁)。〕。加えて、吉野から津風呂川に出るための峠越えでは馬が利用できないために、馬を回り道させたのを、慌しく出立した描写に変えたのではないかと推定する説もある〔直木孝次郎『壬申の乱』107-111頁。遠山美都男『壬申の乱』はこれに従う(106頁)。〕。その後の内戦で県犬養大伴が果たした役割については、書紀に記載がない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「県犬養大伴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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