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狩野甚之丞 : ミニ英和和英辞書
狩野甚之丞[かのう じんのじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [これ]
 (int,n) (uk) this

狩野甚之丞 : ウィキペディア日本語版
狩野甚之丞[かのう じんのじょう]
狩野 甚之丞(かのう じんのじょう、 天正9年 (1581年)? - 寛永3年(1626年〔没年は、京都所司代である板倉重宗が記した裁判の覚書である『公事留書』(「備中松山板倉家文書」の名前で国文学研究資料館寄託慶安5年(1652年)8月12日条にある「狩野甚丞後家」と甚之丞門人「狩野宝仙」の間で起きた甚之丞の家屋、諸道具の相続をめぐる裁判記録より。そこで甚之丞後家は「甚丞廿六年以前ニ相果申候」と証言していることから逆算。生年は没年齢46歳からの逆算(五十嵐(2014))だが、後述のように異論もある。〕)) は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した狩野派絵師狩野宗秀の嫡男で、狩野永徳の甥に当たる。幼名は甚吉、は真説、元秀。
== 伝記 ==
甚之丞が最初に記録に表れるのは、慶長6年(1601年)11月に父・宗秀が狩野家当主・狩野光信に宛てた遺言状である。そこで宗秀は、「私は病を患い、もはや回復は見込めない。甚吉は年もまいらぬ者だから、万事あなたの良いと思うように引き回してくれて構わない」「どうか甚吉に目を懸けてやって欲しい。末永く良きよう宜しく頼む」と、切々と訴えている。この時甚之丞は数え21歳で、決して幼名で呼ばれる少年ではなかったが、死の床にあった宗秀は息子に目を懸けて欲しい一心でこう綴ったと見られる〔五十嵐(2014年)p.6。〕。ただし、これでは「年のまいらぬ者」という表現と矛盾するとして、多く見積もっても15歳前後だとする意見もある〔山本英男 「桃山画壇を生きる─狩野派絵師の攻防─」(京博図録(2015)p.16)。〕。光信は宗秀末期の願いを聞き届け、半年後に家老へ送ったと思われる手紙では、「甚吉殿は古法眼(狩野元信)の御跡であるから、代々そなたの家が扱うべき仕事である。甚吉殿は一段と才能があるので、然るべく世話をして欲しい」と綴っている〔共に『古画備考』収録。〕。
慶長13年(1608年)には、呂宋国太守宛の返書の下絵を甚丞が描いたといい〔『異国日記』。〕、『御湯殿上日記』にも同12月8日に「お香包を進上」したと記されている。翌年31歳の時には名古屋城障壁画制作に参加し、この中で最も知られた名作・対面所の風俗画や表書院二之間障壁画は甚之丞の作とするのがほぼ定説となっている。元和5年(1619年)内裏女御御所対面所の障壁画制作では、未だ若年の狩野探幽より上位で、光信から変わった当主狩野貞信に次ぐ席次で参加した。元和9年(1623年)臨終する間際の貞信に宛てた一族一門の誓約書に、狩野長信、探幽に次いで三番目に署名しており、名実共に狩野家内で枢要な位置を占めていたことがわかる。寛永3年(1626年)完成の二条城の障壁画制作でも、No.3の立場で格式の高い勅使之間障壁画を担当している〔「二條御城行幸之御殿御絵付御指図」(京都大学附属図書館蔵)。〕。甚之丞は何時頃かは不明だが法橋位に叙されており、こうした度重なる障壁画制作の褒賞として得たものであろう。同年12月25日には江戸にいて以心崇伝に墨跡を届けている〔『本光国師日記』寛永3年12月25日条。〕が、この直後14歳の息子と同時に亡くなったという、享年46〔『素川本圖繪寶鑑逸文』『古画備考』。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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