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狩野 興以(かのう こうい、生年不詳 - 寛永13年7月17日 (1636年8月17日)は、安土桃山時代から江戸時代の狩野派の絵師。元の姓は松屋、通称・弥左衛門、あるいは弥兵衛。 == 概略 == 関東に生まれる(足利、伊豆国〔江戸中期の国学者檜山坦斎が著した『皇朝名画拾彙』に「下野州足利人或伊豆人」とある。〕、武蔵国〔興以の長男興甫の子孫の家に伝えられた家系図より(土居次義『近世日本絵画の研究』323頁)。〕などの説あり)。京都に出て狩野光信の弟子となり、その代表的門人として知られる。慶長10年(1605年)高台寺大方丈障壁画、元和5年(1619年)女御御対面御殿、寛永3年(1626年)二条城、同6年(1629年)台徳院霊廟などを、元和から寛永期の重要な障壁画制作に参加した。元和9年(1623年)、狩野貞信から狩野安信への狩野宗家相続の誓約書に血縁者に並んで末席ながら署名しており、狩野派の中枢で活躍した重要な画人だったのに間違いない。 江戸狩野の基礎を築いた狩野探幽、狩野尚信、狩野安信ら3兄弟の養父の役割を果たし、その功績で狩野姓の世襲を許されたと後世の史料は伝える。また、「法橋」印を押す作が見られることから、正確な年は不明ながら法橋に叙されたと考えられる。晩年に紀州徳川家の御用絵師格となって長男の興甫がこれを継ぎ、次男の興也は水戸徳川家、三男の興之は尾張徳川家と御三家に仕えた。尾張藩に三男興之の文献資料はなく一時的な在藩だったようだが、他の家系は各藩で代々御用絵師として続いていく。没後は、江戸赤坂の種徳寺に葬られた。 水墨画の遺品が多く、古典的な画法を会得した堅実で温和な表現が特色である。二条城白書院障壁画が代表作とされたが、近年の研究では作風の違いや、部屋の格と興以の狩野派内での序列が合わない事から、白書院は狩野派の長老格狩野長信作の蓋然性が高まっており、興以は老中三之間の「雪中柳鷺図」を描いた可能性が指摘されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「狩野興以」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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