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近衞 家実(このえ いえざね)は、鎌倉時代前期の公卿。関白近衛基通の一男で、母は坊城顕信の女・顕子。子には兼経・鷹司兼平などがいる。晩年六条猪隈小路に猪隈殿を構えたことに因み、猪隈関白(いのくま かんぱく)と呼ばれた。 == 生涯 == 建久元年(1190年)12月六条殿にて元服・叙爵。同2年(1191年)12月従三位に叙されて公卿に列した。その後も官位は累進して、元久元年(1204年)12月左大臣に転じ、建永元年(1206年)九条良経の薨去に伴い、藤氏長者・摂政に補任。同年関白に補任。承久3年(1221年)承久の乱では後鳥羽上皇らの挙兵に反対し、4月関白を解任されるも、乱の鎮圧後は仲恭天皇廃位に伴って九条道家が失脚したため、7月再び摂政に補任される。同年12月20日には太政大臣に就任し、後堀河天皇の元服加冠の役を務めた。貞応2年(1223年)後高倉院崩御後は名実ともに朝廷の主導者となる。鎌倉幕府に協調して後鳥羽院政を否定すべく復古的・消極的な政治を敷き、訴訟では公卿の議定を復活させ、財政難には成功で対処しようとするも、綱紀は弛緩するばかりであった。安貞2年(1228年)12月西園寺公経と組んだ道家の工作により、関白を辞任させられる。以後、近衛家と九条家とが交替で摂関を務めるのが慣例化した。嘉禎4年(1238年)3月に准三后。仁治2年(1241年)11月28日出家し、円心と号する。翌年12月27日咳病により猪隈殿で薨去、享年64。 温厚な性格で幕府の信任が厚く、承久の乱前後の困難な朝幕関係の修復に努めた。日記『猪隈関白記』(『続御暦』)は後鳥羽院政や草創期の幕府を知るための重要な史料であり、陽明文庫には自筆本が所蔵されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近衛家実」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Konoe Iezane 」があります。 スポンサード リンク
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