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猿屋町御貸付金会所(さるやちょうおかしつけきんかいしょ)は、寛政改革の棄捐令の際に札差救済のために浅草猿屋町(現在の台東区浅草橋3丁目付近)に設置された機関。後に札差に対する監督機関としての機能も有した。 == 会所設立の目的とその役割 == 棄捐令を発布するに際して老中松平定信らが危惧したのが、かつて鎌倉幕府が永仁徳政令において、却って金融業者の反感を買って融資の道を絶たれた御家人が更なる貧窮に陥った事態の繰り返しを避けることであった。これに対して勘定奉行久世広民の提示した政策案は、江戸・京都・大坂の有力豪商らから資金を募って経営状態の良い有力な札差に会所を運営させて経営困難となった札差に年利一割で貸し付け、その利子収益を事務経費・運営手当・出資配当として1:1:8で分配するというものであった。この案は後に様々な変更を加えられる事になるが、会所設立の原案は久世広民により考えられたものである。 だが、江戸幕府が出資するか否かで意見がまとまらず、資金貸付けの規則が決まったのは、棄捐令発布の翌年寛政2年(1790年)2月のことであった。江戸の主要商人10名が勘定所御用達として主たる出資者となり(当初見送られた幕府からの支援も後には行われる)浅草御蔵近くの猿屋町に設置され、町年寄の樽屋与左衛門が運営責任者となった。そのため、樽屋御役所(たるやおやくしょ)とも称された。猿屋町に出来た役所は、間口30間(約55メートル)・奥行25間(約45メートル)の建物で、正しくは札差御改正会所という。会所の近くには御廻米納会所や札差会所の建物もあった。 会所では、経済的に困難に陥った札差に経営資金を融資したが、仲間の札差による連帯保証と旗本・御家人に対する貸出実績、元本以上の抵当設定などその審査は厳しかった。さらに、貸し出される資金は必要とする金額の40パーセントまでで、15ヶ年賦・年利6パーセントと定められた。幕府としては、札差が会所と旗本御家人の間の貸金仲介業者となってしまう事を望んではおらず、会所から札差に貸出される資金の貸下げはほとんどなかった。 だが、その一方で、勘定方は会所を通じて札差の経営状況を把握し、また命令伝達機関として用いるなど統制・監視機関としても有用な存在であった。また、幕府も支援したとはいえ資金の中心は豪商達であり、幕府の支出は最低限に留めて、豪商達の資金を拠出させることで彼らの奢侈を抑制し、彼らの蓄財した金を市場に流通させる事で経済の活性化を図った。札差に対しては保護と資金統制という「飴と鞭」を与え、ひいてはそこから融資を受ける旗本・御家人の経営を保障するという、財政的な余裕の乏しい幕府にとっては好都合なシステムであった。それは、この会所が江戸幕府の崩壊まで継続し続けたことが裏付けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「猿屋町御貸付金会所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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