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学校法人獨協学園(がっこうほうじんどっきょうがくえん)は、日本の学校法人。獨協大学、獨協医科大学、姫路獨協大学など諸学校の設置者である。 == 沿革 == === 略歴 === 埼玉県草加市に本拠を置く学校法人獨協学園の源流は、19世紀に遡る。当時世界の最先端であったドイツ文化を取り入れるため、国策で1881年9月18日、獨逸學協會(ドイツがくきょうかい; Verein für deutsche Wissenschaften)が東京麹町に設立された。国策機関ということもあって初代総裁は北白川宮能久親王が就任している。1883年には獨逸學協會學校(獨逸学協会学校)が開設された。 獨逸學協會には西周や加藤弘之などの啓蒙学者が設立に関与したため、建学の精神的支柱にドイツ啓蒙主義を置いていた。他に井上毅、青木周蔵、桂太郎、品川弥二郎、平田東助ら明治時代の政治や外交の第一線で活躍した面々も名を連ねている。中でも学校運営を中心的に担っていたのは品川弥二郎とされている〔品川は獨逸學協會委員長として、北白川宮に代わって会の実務を統括した。1883年10月16日に東京府知事に対して出された設置願(当時は仮名を「私立獨逸学校」として提出)は品川の名義で出されており、今日品川を創立者とみなす根拠になっている。〕。当初は普通科のみで翌年からは上級教育を行う専修科が設置された。また、宮内省から後に文部省と司法省から補助金が出ていた(ただし、その額は決して多くはない〔開校直前の1883年7月から1年間の収支報告によれば補助金は収入全体の1/6程度であった。〕)。こうした配慮によって獨逸學協會学校専修科は九大法律学校の1つに数えられるようになる。だが、帝国議会開始後に財政難と民党の反対によって政府からの補助金が打ち切られたこと、文部省が帝国大学においてドイツ学を充実させる方針(東京帝国大学における独法科・独文科設置)に転換して、私学にあたる獨逸学協会学校を支援することに消極的になったこと、協会幹部や歴代校長が政府高官や著名な学者(初代:西周・2代:桂太郎・3代:加藤弘之)が占められて長期的な視野で経営できる経営者がいなかった〔品川弥二郎や後述の再建案を作成した有松英義も中等教育強化のための中学校増設を検討していた東京府に売却して完全な公立学校にする案をも検討していた。〕こと、設立経緯から官吏育成を目的としていたが、実際には高等文官試験における帝国大学出身者並みの待遇が実現されず、結果的に有松英義ら数名しか合格できなかったことによって〔この事実は設立経緯とともに専修科廃止以後においても学校関係者にとって誇りとされていた。学校創立50周年の際に当時の校長であった司馬亨太郎による 「獨協創立の精神がなかったならば、明治文化は斯くの如き進歩の歩みを受け得なかったであろう。(中略)その卒業生の一人、前枢密顧問官有松英義氏は明治の大逆罪人である幸徳秋水及びその一味に止の刃をさした人であり、又現司法大臣小山松吉は大正昭和にかけての共産党検挙の中心人物である。此の様に明治から大正にかけての国家に対する不心得者全てを、有松、小山という二人の獨逸学協会学校出身者の大人物によって料理したことは、獨協が持っていた教育的精神と、その実績を如実に示したものでなくて何であろうか。」(『獨逸学協会学校五十年史』)という記述からもそれが伺える。〕専修科存続の意義は無くなったと判断されて1895年に専修科は廃止されて組織は東京帝国大学独法科に吸収された。これによって後に民間への人材輩出に力を注いで私立大学へと発展した他の法律学校とは違う方向に向かうことになる。その後、4代校長には教員出身のドイツ語学者大村仁太郎が起用されて中学校としての道を歩むことになった。 第一次世界大戦で大日本帝国がドイツ帝国との国交を断絶し、両国が戦争を開始すると、その時局に乗じた一部の勢力からは獨逸學協會の廃止論が出た。これは当時の時流という問題もあるものの、創立期に国家の保護を受けた事で却って自立した教育機関としての組織作り・学校経営が疎かになってしまったためのつけでもあった〔専修科廃止後も桂太郎ら有力な政治家らの後ろ盾と大村の教育・経営手腕によって経営を維持されてきたが、彼らが亡くなると有能な学校経営者も支援者も欠いた学校経営はたちまち危機に陥っていた。大正後期に獨逸學協會学校専修科出身の有松英義(元法制局長官)が、巌谷小波(普通科出身)らとともに母校再建支援に入った際の最初の課題が債権者からの学校差押訴訟に対する対応であった。〕。 更に第二次世界大戦の敗北で、ナチス・ドイツと大日本帝国が相次いで崩壊し、日本に於ける旧来のドイツ式法体系や教育制度が戦勝国アメリカ式に取って代わるようになると、学校そのものの存在意義も問われるようになった。1947年、財團法人獨逸學協會を財団法人独協学園へ、また獨逸學協會學校を独協中学校と名称変更する。その際、「独協」の意味する内容を獨逸學協會の略称としての獨協から、「独立協和」の略語としての独協と読み替えることにした。その後、教育基本法や学校教育法が施行されると財団法人独協学園を学校法人化して危機を乗り切ろうとした。しかし、法人内での分裂騒動や教員生徒と法人の対立など学校の再建はなかなか進まなかった。1953年に「独協」の表記がOBや学校関係者の要求によって旧の「獨協」表記に戻された(現在の「学校法人獨協学園」及び「獨協中学校・高等学校」の校名の呼称確定)のもこの混乱を象徴する事件の1つである。危機感を募らせた獨逸學協會學校出身者でカント哲学者の天野貞祐が1952年に獨協中学校・高等学校長に就任すると学校再建が本格的に動き出すことになる。中学校及び高等学校の再建に目処が立った1964年に、再び天野貞祐を中心に獨協大学が埼玉県草加市に設置され、中学校から大学までの教育体制が整うこととなった。1973年に栃木県壬生町に獨協医科大学が設置された。1987年には兵庫県姫路市の誘致により、日本初の公私協力方式で姫路獨協大学を設置した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「学校法人獨協学園」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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