翻訳と辞書 |
玄昉 ( リダイレクト:玄ボウ ) : ウィキペディア日本語版 | 玄ボウ[げんぼう]
玄昉(げんぼう、生年不詳 - 天平18年6月18日(746年7月15日))は、奈良時代の法相宗の僧。俗姓は阿刀氏(安斗氏)〔読みは「あと」。姓は連。阿刀連の出自は安都雄足の項を参照。〕。安斗阿加布の子とする系図や〔鈴木真年『百家系図』巻46,阿刀宿祢(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)〕、善珠の父とする史書もある〔『扶桑略記』延暦16年4月丙子条による。〕。僧官は僧正。 == 略歴 ==
義淵に師事。養老元年(717年)遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。約20年後の天平7年(735年)次回の遣唐使に随い経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国した〔『続日本紀』巻第16、天平18年6月己亥(18日)条。〕。天平8年(736年)封戸を与えられた。翌天平9年(737年)僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。〔福山敏男は『奈良朝寺院の研究』において、法華寺(旧不比等邸)に隣接する隅寺(現海竜王寺)を内道場に擬している。〕 聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、失敗したものの天平12年(740年)には藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。翌天平13年(741年)7月15日千手経1000巻を発願、書写・供養している〔『千手千眼陀羅尼経残巻 』として1巻のみ現存。京都国立博物館蔵、国宝。〕。しかし、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌天平18年(746年)任地で没した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玄ボウ」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|