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玄菟郡(げんとぐん)は、漢朝により現在の満州南部から北朝鮮に設置された郡(地方行政機構、植民地的な存在とする見方がある〔鳥越憲三郎は、「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」と記している()。〕〔武光誠は、「魏志倭人伝は、朝鮮半島にあった魏の植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」と述べている(武光誠「古代史最大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『月刊現代』2008年6月号 87頁)。〕〔渡辺延志朝日新聞記者は、「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地()」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡()」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた()」と説明している。〕〔別冊宝島は「ソウル周辺や江原道、さらに北の北朝鮮は中国の植民地で楽浪郡といった」と記している()。〕〔桜井誠は「漢の武帝によって真番・臨屯・玄菟・楽浪の漢四郡が設置されるなど、中華帝国の千年属国」「中国・前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島に設置した四つの郡県(中国の行政単位)。三国時代に至るまで、代々中華帝国の支配を受けていた」「中国前漢武帝の時代に衛氏朝鮮は滅ぼされ、その地に楽浪郡をはじめ真番郡、臨屯郡、玄菟郡のいわゆる漢四郡が設置されており、侵略を跳ね返したどころか漢帝国の一地方となっていた」と説明している()。〕)。楽浪郡、臨屯郡、真番郡と共に漢四郡と称される。玄菟郡はその設置期間に3段階の沿革が存在し、それぞれ「第一玄菟郡」「第二玄菟郡」「第三玄菟郡」とよばれている。歴史研究ではこれらを混同を避けるべく明確な分類を行う必要がある。 == 前史 == *前134年(元光 (漢)元年)、前漢は濊州(遼東郡の東北方面、のちの蒼海郡の地か)を取らんとして城邑を築いた。 *前128年(元朔元年)冬、穢君南閭ら(穢族の首長の「南閭」たち)が28万〔人口28万人は1戸5人と概算すると約5万〜6万戸となり、後世(三世紀)の高句麗3万戸東穢2万戸沃沮5千戸の合計に近い。〕の穢人を率いて投降、その地に「蒼海郡」を設置(「滄海郡」と書くのは誤りである) *前126年(元朔3年)春、蒼海郡を廃止。この時、現地の首長(南閭か?)に「穢王之印」を授けている。 ::(前134年から前126年までの9年間は前漢と穢族との間に武力対立が継続していたとする説も存在する) *前108年(元封 (漢)3年)、衛氏朝鮮を滅ぼしその故地に楽浪郡を、周辺に真番郡・臨屯郡の2郡を設置。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玄菟郡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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