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玄鎮健[げん ちんけん]
玄 鎮健(げん ちんけん、ヒョン・ヂンゴン、1900年陰暦8月9日 - 1943年陰暦3月21日)は朝鮮の小説家である。短篇小説作家。号は憑虚。本貫は延州玄。20篇の20篇と3篇の長篇を残した。玄の作品は客観的現実に眼を向けたリアリズムであり、日帝の支配下にあった民族の受難的運命におかれた、ひとつの時代のシンボルである。 == 略歴 == 1900年、陰暦8月9日、慶尚北道に生まれる。4人兄弟の四男。父・玄慶運は郵便局長。三男の玄鼎健は上海の大韓民国臨時政府で活動中、日本官憲に逮捕され、平壌の監獄で獄死した。その兄の妻も夫の後を追って自殺、玄鎮健はこの兄の影響を最も強く受けていた。12歳のとき、渡日して東京の成城中学校に入学、1917年に卒業して帰国。翌1918年に上海に渡り滬江大学のドイツ語専門部に入学し、1920年に帰国。玄鎮健が文壇に出たのは父の従兄弟である玄僖運の紹介で1920年に雑誌『開闢』(11号)に載せた「犠牲花」であるが、習作の粋を出なかった作で、一般には「貧妻」を玄の処女作とみなしている。「貧妻」が評価され、徽文学校出の青年グループ、朴鍾和、羅彬、洪思容、李相和、朴英熙らと共に雑誌『白潮』の同人となり、「酒を勧める社会」「堕落者」などを発表していく。その文才は廉想渉の激賞を受けるほどであった。1936年、当時、東亜日報の社会部長であった玄は、ベルリンオリンピックのマラソンで優勝した孫基禎の日章旗を抹消した事件(日章旗抹消事件)のため、起訴され、1年の獄中生活を送る。その後、言論界を去った。玄は積極的な抗日運動には関わらなかったが、日本人とは付き合わず、朝鮮人とだけ親睦を交わした。兄を日帝に殺されたこともあり、玄は最後まで反日思想を固く守った。1943年、陰暦3月21日、逝去した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玄鎮健」の詳細全文を読む
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