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玉乃海代太郎 : ミニ英和和英辞書
玉乃海代太郎[たま, だま, ぎょく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たま, だま, ぎょく]
  1. (n,n-suf) ball 2. sphere 3. coin
: [の]
  1. (prt) (1) (uk) indicates possessive 2. (2) verb and adjective nominalizer (nominaliser) 3. (3) indicates question (sentence end)
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

玉乃海代太郎 ( リダイレクト:玉乃海太三郎 ) : ウィキペディア日本語版
玉乃海太三郎[たまのうみ だいさぶろう]

玉乃海 太三郎(たまのうみ だいさぶろう、本名:三浦 朝弘(みうら ともひろ)、1923年1月2日 - 1987年9月27日)は、大分県大分市出身で、二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。最高位は東関脇。全盛期の体格は181cm、120kg。得意手は右四つ、櫓投げ、外掛け。
引退後は、年寄・12代片男波を襲名し、片男波部屋を興した。
== 来歴 ==

=== 現役時代 ===
1923年1月、料亭板前の家に、六人兄弟の長男として生まれた。小学校時代は野球に熱中しており大分県立商業学校(現大分県立大分商業高等学校)からの誘いもあったが中学には進学せず、玉錦二所ノ関部屋)の一行が巡業に来たのを見て力士になることを志望した。最初本人は郷土の英雄であった双葉山への入門を希望したものの、玉錦が二枚鑑札で師匠でもあった二所ノ関部屋に入門、1937年(昭和12年)5月場所で初土俵を踏んだ。同部屋の神風とは、同期だった。当初の四股名は「福住」。
幕下だった1940年(昭和15年)に上海で巡業が行なわれた時のこと、と食事を振舞われた後に宿舎に帰ろうと黄包車(ワンポーツ、タクシーのようなもの)を止めたが酔っ払っていたことを理由に乗車拒否される。酒癖の悪い福住は怒って運転手を引きずり降ろしケンカを始める。そこへ憲兵数名が駆けつけるが悪いことに彼らも酒を飲んでいた。いきなり軍刀の鞘で殴られて激怒した福住はその憲兵全員を叩きのめしてしまう。憲兵に暴力を振るいしかも倒してしまったところへ、今度はしらふの憲兵が駆けつけて拳銃を抜く。このためあわや殺されるかという所だったが、当時大関羽黒山と師匠・玉錦亡き後に二所ノ関を継いだ玉ノ海が懸命に詫びを入れどうにか許された。また当時は大日本相撲協会の理事に、予備陸軍大将が就いていたことも福住に有利に働いた。その代わり協会から破門することが条件とされてしまった。流石に逆らえず除名となった。
太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、海軍軍属としてトラック諸島テニアン島ガダルカナル島の飛行場建設に従事した。米軍の攻撃によりジャングルへ逃げこむが飢餓地獄を生き延び、戦死、病死、餓死者25,000人以上という敗戦の中にあって、ケ号作戦によって奇跡的に救出された海軍の生存者832名の内のひとりとなった。マラリアアメーバ赤痢にかかり「一週間の命」であったが、これも生き延び帰国。大分市内の実家に帰ってきた時は、出発時90kgの大男が骨と皮に痩せていたと言う。
病み上がりの1944年(昭和19年)春、徴兵検査を受け現役兵たる陸軍二等兵として陸軍に入営。部隊は満州から南方戦線へ転戦したが教育課程未修了であったのでただ一人はずされた。部隊はサイパンの戦いで全員玉砕したため、またもや生き延びたことになる。東安省虎林で終戦を迎えシベリアへ抑留されたがソ連軍監視兵の目を盗んで脱走、貨車にもぐりこみ中国領内に逃げ込んで中国人に変装した。1947年(昭和22年)に復員船で帰国。その後数年の間、故郷の大分や愛媛県野村町でアマチュア相撲のコーチをして暮らしていた。
1950年(昭和25年)に師匠・玉錦の夢を見たという。するとその翌日に二所ノ関(玉ノ海)から破門を解くから戻って来いと言われて復帰、幕下格で帰参した。神風には「儂がやめる時になって帰って来たのか」と言われたらしい。
1952年(昭和27年)9月場所で新入幕。1953年(昭和28年)5月場所、2日目に命の恩人・羽黒山と対戦、高熱を出していたが出場し見事に勝って恩を返した。これが結果として、羽黒山最後の土俵になった。
1956年(昭和31年)9月場所では、小結で9勝6敗と勝ち越し、殊勲賞を受賞。その後関脇で2場所連続11勝4敗、殊勲賞と敢闘賞を1回ずつ受賞し、3場所連続三役在位勝3場所合計31勝とした。当時の基準では大関に昇進してもおかしくない成績だったが、同時期に連続3場所関脇在位して合計29勝(8勝-8勝、13勝での優勝)であった朝潮が直前の優勝を評価される形で大関昇進を射止める結果となった。その後マラリアにかかり無念の2場所連続休場、一時は体重が90kgまで落ちたが懸命に回復に努め14枚目まで落ち再起をかけた1957年九州本場所、後援会より贈られた金色のまわしを締めて土俵に上がる。理事長の時津風からまわしの色にも規則があるからだめだと指摘されるが、この場所を最後と覚悟を決めていることを話すと、特別に許可を得ることができた。この場所では、見事涙の全勝優勝を飾った。千秋楽に引退発表を考えていたそうだが慰留され、現役続行となった。この優勝により第1回九州本場所での優勝力士として名を残すことになったが、実は前年の九州準場所でも優勝しているため事実上の九州場所2連覇だった。
栃錦にはめっぽう強く通算対戦成績は玉乃海11勝、栃錦16勝。最後に6連敗するまでは、勝ち越していた。これはかつて、栃錦に初顔から2連敗した時に勝ったら懸賞を出すと言われたことがあるようだ。取り口は怪力を生かし四つ身から櫓投げを放つなど豪快そのもの、「荒法師」の異名をとった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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