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玉木愛子(たまきあいこ、1887年 - 1969年)。ハンセン病に罹患、熊本の回春病院に入院、後国立療養所長島愛生園に転園した。脚の切断、失明にも関わらず、俳句に精進した。 ==略歴== 〔玉木〕 1887年12月28日。大阪・島の内の材木問屋に生まれる。後に妹、弟が生まれる。家庭は裕福で、幼い頃より、踊り、琴、三味線を習う。1892年らいの兆候が出現するも進行が遅く目立たなかった。1899年、女学校の検診でらいを宣告され、退学。人目をさけて自宅での療養生活に入る。1919年 妹、弟たちの結婚の支障になるのを恐れ、熊本のハンナ・リデルが創立した私立ハンセン病病院の回春病院に進んで入院。1921年キリスト教に受洗。1924年、この頃、福岡市の生の松原で療養している西村瞳女を知り、文通を通じて俳句に興味を持つ。1929年、病状が悪化し、右足を切断(熊本大学外科部長により)。1933年種々の理由により、熊本を去り、長島愛生園に移る。1935年、僚友柴水と結婚。1937年。失明。回春病院に入院していた瞳女の影響もあり、俳句にかけるようになる。婦長なども加わり、婦人句会「かりん句会」も誕生。1948年。戦争により中断していたホトトギスへの投句を再開。注目を浴びる。高浜虚子の知遇を得る。1955年。自伝「この命ある限り」を出版。1969年。死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玉木愛子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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