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玉椿憲太郎 : ミニ英和和英辞書
玉椿憲太郎[たまつばき けんたろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たま, だま, ぎょく]
  1. (n,n-suf) ball 2. sphere 3. coin
椿 : [つばき]
 【名詞】 1. camellia japonica 

玉椿憲太郎 : ウィキペディア日本語版
玉椿憲太郎[たまつばき けんたろう]

玉椿 憲太郎(たまつばき けんたろう、1883年明治16年)11月10日 - 1928年昭和3年)9月19日)は富山県中新川郡下条郷上砂子坂村(現・富山市)出身の大相撲力士雷部屋所属。小兵でありながら多彩な技としぶとい相撲で関脇まで上り詰め、「名人」「怪力士」などと呼ばれた。本名は森野健次郎。現役時代の体格は159cm、90kg。
==経歴==
父と兄が草相撲の強者だったことから、これに影響を受けて力士を志すようになる。1895年(明治28年)ごろ、知人を通して梅ノ谷に紹介してもらい、その師匠である雷部屋に入門。1897年(明治30年)1月場所初土俵。この時の四股名は湊山。1900年(明治33年)の一場所のみ玉ヶ関と改名するが、これは兄弟同様にしていた玉ヶ関という力士が死去したため、弔いの意味で付けたものであった。
同年、幕下に上がり、四股名が玉椿となる。1903年(明治36年)5月新入幕。1907年(明治40年)1月小結1909年(明治42年)6月関脇と、小さい体格を利用した取り口で平幕上位から三役に定着する。
1911年(明治44年)1月、新橋倶楽部事件(力士が待遇改善を求めてストライキを起こした事件)が起きる。この時玉椿は、「たとえ、師匠たちが悪いにしろ、恩師に弓を引くわけにはいかない」と言い、また独自に協会の収支決算も調査し「協会には借金があるのだから力士の要求は実現不可能」だとして、関脇以下ではただ1人ストライキに不参加。しかしこれによって事件を起こした力士達からは敵視され、事件解決時の覚書に「玉椿問題は、無条件にて本問題の解決と同時に和解せしむる事」という一項目がわざわざ付け加えられることとなった。
事件以後も土俵の上では好調が続き、同年6月場所には優勝旗手。三役には最高5場所連続で在位し年2場所の時代に関脇4場所、小結7場所を勤めた。しかし1914年大正3年)ごろから力に陰りが見え始め成績が低下。1916年(大正5年)1月場所を最後に引退して年寄白玉を襲名。引退相撲では得意の弓取を行なった。この時、国技館は開設以来初めて満員になるほど人が集まったという。
引退後は、新橋倶楽部事件が尾を引き、年寄の役員になっていた当時の力士たちから冷遇されたため、検査役にもなれず最後まで平年寄のままであった。この頃には早稲田大学で相撲師範も務めている。兄弟子の梅ヶ谷である雷親方が1927年(昭和2年)に死去した後、弟子を引き取って白玉部屋の看板を掲げたが、それから間もない1928年(昭和3年)9月19日に心臓病が悪化して死去。44歳。墓所は東京都葛飾区亀有の蓮光寺。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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