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玉浦海戦(ぎょくほかいせん、朝鮮読みで玉浦はオクポ)は、文禄元年(1592年)5月7日、巨済島東側にある玉浦という入江において行われた海戦である。李舜臣、李億祺、元均の三将が率いる朝鮮水軍は全羅左水営(麗水)より出撃して、停泊中の日本の水軍と輸送船団とを襲撃し、文禄の役における初めての朝鮮側勝利をあげた。 朝鮮水軍は余勢を駆って攻撃を続け、同日中に合浦で、翌日は赤珍浦でも交戦して引き揚げたが、この項ではその合浦と赤珍浦で発生した小海戦についても続けて記述する。 == 背景 == 文禄元年4月12日、釜山浦近辺に日本軍が700隻余〔元均は釜山に来襲した日本の軍船を「500隻」と報告している。〕で上陸すると、当地の慶尚左水使朴泓は山中へ逃亡し、漢城府へと走った。慶尚右水使元均は巨済島から急行したが、日本軍の勢力が凌駕するのを見て交戦を諦め、水軍船舶(主力艦の板屋船を含む)を戦わずして沈めると、水軍将卒を解散し、玉浦萬戸李雲龍、所非浦権管李英男、永登萬戸禹致績ら側近や精兵だけを連れ、4隻に分乗して昆陽(現泗川市)へ撤退した。 これにより慶尚道水軍は壊滅し、日本軍は楽々と制海権を確保して後続部隊を上陸させた。 元均はさらに内陸に退こうとしたが、李雲龍または李英男に諫められ、全羅道水軍(湖南水軍)に救援を仰ぐことになった。ところが全羅左水使李舜臣は、定められた各々の分界を守るべきで、朝鮮朝廷の命令もなく越境することはできないと言って、要請を拒否した。これはすぐにでも全羅左道に日本水軍が攻めてくると予想し、船舶が足らず他道を助ける余裕はない判断したためともされる〔そもそも慶尚右水使の艦隊が最大で、73隻の板屋船(戦艦)を擁する主力艦隊だった。元均はこれを満足に戦わずに沈めてしまったことで後世強い批判を受けた。しかし元均は敵船を500隻と遭遇して10隻沈めたが多数の敵に抵抗しきれなかったと報告していた。 全羅左水使の艦隊の規模は、その3分の1ほどの24隻の板屋船で構成され、小船を含めても90隻に満たない李舜臣の艦隊では到底歯が立たないと考えて出撃を躊躇ったとされる。〕。元均は李英男を5、6度も行き来させて説得を続けさせた。 李舜臣は、元均に対しては頑なであったが、信頼する部下の光陽県監魚泳潭の諫言があり、鹿島萬戸鄭運や軍官宋希立が慷慨して「敵を討つに境界はなく、敵の先鋒を挫くことが本道の防衛にもつながる」と主張したことで、ついに翻意して、5月には結局は出撃することになった。(李舜臣の第1次出撃) これを知った全羅道巡察使李洸は、全羅右水使李億祺に、艦数の少ない李舜臣の艦隊を助力するように命令した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玉浦海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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