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玉縄城(たまなわじょう)は相模国鎌倉郡玉縄村(現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻)にあった日本の城(平山城)。甘縄城ともいう。 == 城の歴史 == === 北条氏時代 === 永正10年(1513年)北条早雲(伊勢盛時)により築かれた。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。さらに鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面でも重要な役割を果たした。 大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の相模三浦氏と争うが、長期戦となった。この際、同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興が三浦氏の援軍として挟撃してくることへの備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれた。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえとしての役割を担った。 北条氏時代には、一門の重要人物が城主として置かれた。初代城主氏時は早雲の実子、2代城主為昌は氏綱の実子であり、為昌の急逝後は氏綱の娘婿で長く城代として為昌を補佐してきた北条綱成が「為昌の養子」という名目で3代城主となった(ただし、実際の年齢は綱成の方が上である)。以後、綱成の子氏繁、氏繁の嫡男氏舜、その弟氏勝と4代にわたって城主の地位が継承された〔佐藤博信『中世東国の足利・北条氏の研究』岩田書院、2006年 ISBN 978-4872944266 第8章「北条為昌と北条綱成」(原論文1986年)・第9章「玉縄北条氏の研究」(原論文1975年)〕。 堅城として知られ、大永6年(1526年)11月26日に足利義明に呼応して鎌倉へ攻め入った里見義豊(里見実尭を大将とする説もある)の軍勢を撃退したときをはじめ、度々里見氏の攻撃を退けた。また上杉謙信・武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどである。豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐においては、徳川家康の攻撃を受け、守将北条氏勝は降伏・開城。以降徳川氏の支配下になる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玉縄城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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