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『玉葉和歌集』(ぎょくようわかしゅう)は、鎌倉時代後期の勅撰和歌集である。和歌数約2800首と勅撰和歌集中最大であり、中世和歌に新風を吹き込んだ京極派和歌を中核とした和歌集として知られる。 * 本文中に引用した玉葉和歌集の和歌の歌番号は新編国歌大観に拠る。 == 概要 == 鎌倉時代後期、当時の沈滞した和歌のあり方に疑問を持った京極為兼は、歌を詠むにあたり、心の絶対的な尊重と言葉の完全な自由化を主張するようになった。その主張は、為兼が仕えた皇太子時代の伏見天皇と側近の文芸愛好グループに受け入れられ、京極派の和歌が始まった〔岩佐(2000)pp.10-17.〕。伏見天皇の在位中、永仁勅撰の議と呼ばれる勅撰和歌集撰集が試みられたが、この時の撰集は挫折を余儀なくされる〔岩佐(2000)pp.26-27.〕。しかし徳治3年(1308年)、花園天皇の即位によって伏見上皇が治天の君の座に復帰し、京極派主導の勅撰和歌集撰集計画が復活する〔井上(2006)p.155〕。 京極為兼に主導された京極派の和歌は、当時の和歌の常識からは大きくかけ離れたものであったため、強い批判も浴びていた〔岩佐(2000)p.27〕。特に和歌の家、御子左家宗家である二条為世は、京極為兼が撰者となる勅撰和歌集撰集に強く反発し、為兼と為世との間で延慶両卿訴陳状と呼ばれる激しい論争がなされた。結局、伏見上皇の院宣により、為兼が勅撰和歌集を独撰することで決着した〔岩佐(2000)p.33〕。 京極為兼が撰んだ勅撰和歌集は、玉葉和歌集と名づけられた。全20巻、収録された歌数は21ある勅撰和歌集の中でも最大の約2800首に及び、あまりに肥大化してしまった点は玉葉集最大の欠点とされる。しかし構成的には上古から和歌集編纂当時までの名歌人、名歌を満遍なく収録し、ミスの少ない堅実ものになっており、玉葉和歌集を和歌史の中に位置づけるような構成となっている。もちろん中世和歌史に新風を吹き込んだ京極派の和歌も多く撰ばれていて、和歌史の中に京極派の歌風を位置づける構成にもなっている〔岩佐(1987)p.447、深津(2005)pp.417-418.〕。 京極派主導の勅撰和歌集としては後に『風雅和歌集』が撰集されたが、観応の擾乱の影響で京極派は壊滅した。その結果、明治初期まで伝統派である二条派の歌壇支配が続くことになり、長い間、玉葉和歌集、風雅和歌集は邪道であり異端であると見なされた〔岩佐(2000)p.9、p.72、井上(2006)pp.255-256.〕。しかし近代になって再評価が進み、特に迫真の自然詠に高い評価がなされている〔岩佐(1987)p.8、井上(2006)pp.253-254.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玉葉和歌集」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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