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王允之(おう いんし、303年 - 342年)は、中国の東晋の官僚・軍人。字は淵猷。本貫は琅邪郡臨沂県。 == 経歴 == 王舒の子として生まれた。従伯父の王敦に随従していたが、王敦の反乱計画を知って父の王舒に知らせ、王舒は王導とともに皇太子司馬紹にこれを報告した。323年(太寧元年)、王舒が荊州刺史となると、允之はその赴任に従って江陵に住んだ。324年(太寧2年)、王敦の乱が鎮圧されると、明帝(司馬紹)は允之を出仕させようとしたが、王舒が若すぎるといって断らせた。327年(咸和2年)、王舒が会稽国内史となると、允之はまた従って会稽に赴いた。 この年の末、蘇峻の乱が起こった。328年(咸和3年)、允之は父の命を受けて、揚烈将軍を代行し、将軍の徐遜や陳孺および揚烈司馬の朱燾とともに、精鋭3000を率いて、反乱軍を武康県に邀撃した。反乱軍の不意をついて、これを撃破し、数百人を斬首した。反乱軍が舟を棄てて徒歩で敗走したため、允之はその器械を鹵獲して、兵を進めて呉興郡太守の虞潭を救援した。反乱軍の韓晃が宣城を落とすと、故鄣県や長城県に転進してきた。允之は朱燾・何准らを派遣して于湖でこれを攻撃させた。虞潭が強弩で韓晃の兵を射撃すると、韓晃らは敗走し、1000人あまりを斬首し、2000人を降伏させた。虞潭はこのため呉興郡を守りきることができた。陶侃が行台を立てると、允之は督護呉郡義興晋陵三郡征討軍事に推挙された。329年(咸和4年)、韓晃らが南に逃走すると、允之は追撃して長塘湖で追いつき、またこれを破った。允之は反乱を討った功績により、番禺県侯に封じられ、建武将軍・銭唐県令に任じられ、司塩都尉を兼ねた。 333年(咸和8年)に父が死去すると、離職して喪に服した。葬儀を終えると、義興郡太守とされたが、喪中を理由に就任せず、従伯父の王導の説得にも応じなかった。334年(咸和9年)、宣城国内史・監揚州江西四郡諸軍事・建武将軍に任じられた。335年(咸康元年)、後趙の石虎の進攻に対処するため蕪湖に駐屯した。後に西中郎将・仮節に進んだ。ほどなく南中郎将・江州刺史に転じた。342年(咸康8年)8月、衛将軍・会稽国内史となった。10月に死去した。享年は40。諡は忠といった。 子の王晞之が後を嗣いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王允之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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