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王 克敏(おう こくびん)は中華民国の政治家、銀行家、外交官。北京政府、国民政府の政治家で、後に中華民国臨時政府の首脳となる。さらに汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府にも参加した。字は叔魯。 == 事績 == === 清朝、北京政府での活動 === 郷試に合格した後の1901年(光緒27年)、清朝により日本に派遣される。そこで浙江留日官費生経理員、留日浙江学生監督、駐日公使館参賛を歴任した。1906年(光緒32年)、留日学生副監督に就任した。翌年に帰国し、度支部、外務部で勤務した。1908年(光緒34年)、直隷総督楊士襄の下で外交事務を担当する。1910年(宣統2年)、直隷交渉使に就任した。〔王(2002)、453頁。〕〔徐主編(2007)、100頁。〕 1913年(民国2年)、王克敏はフランスへ外遊して、帰国後に中法実業銀行董事に就任した。1917年(民国6年)7月、中国銀行総裁となる。同年11月、王士珍臨時内閣で財政総長となり、さらに中国銀行総裁と塩務署督弁も兼務した。1918年(民国7年)に辞任する。同年12月の南北政府による和平善後会議では、北京政府側代表の1人となった。1920年(民国9年)以降は、中法実業銀行総裁、天津保商銀行総理、中国銀行総裁などを歴任した。〔〔 1923年(民国12年)7月、王克敏は高凌霨内閣で財政総長に就任した。ところが、奉天派指導者・張作霖の反発を受け、わずか1週間で辞任に追い込まれた。10月には中国銀行総裁からも辞任している。しかし、同月に直隷派の曹錕が総統となると状況は一転する。かねてから曹と交遊があった王は、曹が総統にあった間の多くの内閣で財政総長として起用された。1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)により曹錕が拘禁されると、王はいったんは失脚した。しかし、まもなく公職に復帰し、かつての政敵であった張作霖の下でも任用されている。関税自主委員会委員などをつとめた。〔王(2002)、453-454頁。〕〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王克敏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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