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王 印川(おう いんせん)は清末民初の政治家。北京政府では安徽派などに属し、国民政府成立後も中ソ交渉などに携わった人物である。字は月波。号は空海。 == 事績 == === 清末民初の活動 === 1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となる。後に日本に留学し、早稲田大学、中央大学で学び法学士の称号を得た。〔徐主編(2007)、83頁によると、早稲田大学で法学士を取得した、としている。しかし劉主編(2005)、148頁によると、早稲田大学で経済を学んだ後、中央大学で法学士を取得した、としている。どちらが正しいかは不明。〕1911年に帰国すると河南高等学堂教務長に任ぜられたが、まもなく河南独立を謀り、事が漏れて上海に逃れた。上海では『民立報』の編輯となっている。〔徐主編(2007)、83頁。〕〔劉主編(2005)、148頁。〕 中華民国成立後の1912年(民国元年)初めに、統一党の幹事に選ばれ、まもなく副総理とされた。同年5月、統一党が民社などと合併して共和党が結成されると、王印川はここでも幹事となる。翌1913年(民国2年)、衆議院議員に当選する。同年5月、進歩党が結成されると、王は同党理事に選出された。〔謝(1924)、42頁、49頁、54頁。〕その後、憲法起草委員、政治会議議員、約法会議議員を歴任する。1914年(民国3年)5月、参政院参政に任ぜられ、北京『黄鐘日報』を主宰した。〔〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王印川」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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