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王 陽明(おう ようめい、 成化8年9月30日(1472年) - 嘉靖7年11月29日(1529年1月10日)は、中国の明代の儒学者、思想家、高級官僚、武将。朱子学を批判的に継承し、読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした。一方で武将としても優れ、その功績は「三征」と呼ばれている。 == 事績== 諱は守仁(初名は雲、のち守仁と改名された)、陽明は号で、陽明洞(地名)に家を建てたことにちなむ。字は伯安。姓名から王守仁とも呼ばれる。文成公とおくりなされた。浙江省紹興府余姚県(今の寧波市余姚市)の出身で、王導の子孫といわれる。 父王華(1446-1522)は、1481年(成化17年)に科挙を首席の状元で合格した秀才。父の合格当時、陽明はすでに10歳であった。父はのち南京吏部尚書に至り、竜山公と称せられた。王陽明は、仏教、武芸、詩学など、様々な才能に秀でいた。青年時代には杓子定規な勉学に倦んで武術に熱中し、26歳の時には辺境問題の解決には軍略も必要だと考え、自らその任に当たるべく兵法を修めた。その一方で儒学を志し、万物に理が備わっているという朱子学の理気二元論を学んでいるとき、庭の竹の理を窮めると称して、七日七晩、竹の前に座り続け、ついに倒れたという逸話が残されている。1499年(弘治12年)、28歳、3度目の受験で科挙に合格して官吏になったが、儒学の勉強を怠ることはなかった。35歳のとき、宦官劉瑾の独断的な政治を批判する上奏文を、皇帝武宗に提出したが容れられず、劉謹の恨みを買って、はるか僻地の貴州省龍場駅の役人に左遷された。彼は、この言葉も風俗も異なる少数民族の住む地にあって、厳しい自炊生活を送りながら、思索を続け、「龍場の大悟」(龍場での大いなる悟り)といわれる新学説・陽明学を誕生させた。なお、龍場は現在の貴陽市の下の修文県に位置する。同県は、面積1076平方キロ,2002年で人口は29万人。県政府は龍場鎮にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王陽明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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