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王 寵恵(おう ちょうけい)は、清末民初の政治家・法学者。中国同盟会以来の革命派人士であり、法学の大家として北京政府、国民政府において要職を委ねられた。また、一時は臨時国務院総理をつとめたこともある。さらに国際的にも法学者としての名声が高く、国際連盟の常設国際司法裁判所判事にもなった。字は亮疇。原籍は広東省広州府東莞県。 == 事績 == === 革命派としての活動 === キリスト教牧師の家庭に生まれる。幼い頃から英文を学び、1895年(光緒21年)、天津北洋大学堂法科に入学した。1900年(光緒26年)に卒業し、上海の南洋公学で教官をつとめる。翌年、日本に留学して法律・政治を研究した。また、東京で創立された『国民報』において英文記者を担当している。その後、欧米に留学して、イェール大学法学博士号とイギリス弁護士資格を取得した。また、ベルリン比較法学会に所属して、ドイツ民法を英文に翻訳した。〔鄭(1980)、139頁。〕〔劉国銘主編(2005)、180頁。〕〔徐主編(2007)、190頁。〕 1904年(光緒30年)、ニューヨークを訪問した孫文(孫中山)と王寵恵は対面し、孫文の「中国問題の真の解決」を英訳(''The True Solution of Chinese Question'')して公表した。翌年に中国同盟会が成立すると、王もこれに加入している。1911年(宣統3年)9月に王は帰国したが、まもなく辛亥革命が勃発したため、王は上海都督陳其美の顧問として招聘された。さらに南京で開かれた各省代表会議に、王は広東代表として出席し、会議の副議長に推された。〔鄭(1980)、139-140頁。〕〔徐主編(2007)、190-191頁。〕〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王寵恵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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