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王 延鈞(おう えんきん)は、十国・閩の第3代王(皇帝)。太祖王審知の次男。廟号は恵宗。 == 生涯 == 天成元年12月8日(927年1月14日)、王審知の養子である王延稟と協力して政変を起こし、兄の嗣王王延翰を殺害して王位を奪った。即位後まもなく後唐より節度使、琅邪王、閩王に封じられている。 王延鈞は仙術に心酔し、宝皇宮を建築して道士陳守元に与えている。また陳守元の言葉に従い帝号を欲し、長興3年(932年)に後唐に対し呉越王、尚書令に封じるよう求めたが、拒否されたため後唐との関係は断絶してしまう。 長興4年(933年)、王延鈞は帝号を称し、国号を大と改め、独自の元号として龍啓を建元、自らも王鏻(王璘)と改名した。しかし恵宗は自国の国力を客観的に理解し、無謀な国政運営を行わなかったため、国内は比較的安定していた。 後宮関係では陳金鳳を寵愛していた。陳金鳳は元来王審知の婢女であり、容姿は美しいとは言いがたいが淫蕩な性格を有していたという。恵宗が晩年病を得ると、陳金鳳は部下の李可殷と私通するようになり、国人はこれを大いに恨んだと言う。永和元年(935年)、陳金鳳は立后されるが、恵宗の病状は更に悪化するに至り、次男の王継鵬と皇城使李倣は事前に陳后の勢力を排除すべく挙兵、李倣が宮廷内に入り恵宗を刺し、瀕死の重傷を負った恵宗は宮女の助けを借りて自害し、陳后勢力は一掃された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王延鈞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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