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王弥 : ミニ英和和英辞書
王弥[おう び]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

王弥 : ウィキペディア日本語版
王弥[おう び]
王弥(おう び、? - 311年)は、中国五胡十六国時代の漢(前趙)の軍人西晋に仕えた汝南太守王頎の孫。劉淵の配下として洛陽攻略などの功績を挙げたが、石勒と対立して殺害された。
==概要==
東莱郡の人。劉淵が洛陽で任子の時の友人であった。
王氏は歴世の二千石(官職の給料の最高額。転じてある程度以上の官職のことを指す)の家であり、祖父の王頎は西晋の武帝に仕え、汝南太守を務めていた。
306年、2月に劉柏根が西晋に対して反乱を起こし、王弥はこれに従って青州徐州を暴れまわった。王弥には人並み外れた力と弓馬の腕前があり、飛豹と称していた。劉柏根の死後は残党を集めて自ら首領と成り、その兵は数万となった。308年3月に青州・徐州・兗州豫州を攻略、4月に許昌に入城した。5月に洛陽を攻めるが失敗する。
その後劉淵に臣従、皇帝を名乗ることを進言し、鎮東大将軍・青州・徐州の・東莱公とされた。309年には劉淵の命で劉淵の息子劉聡と共に洛陽を攻めるが失敗する。311年、劉曜・石勒と共に再び洛陽を攻めて陥落させて懐帝を捕虜とした。この時をもって実質的に西晋は滅びた(永嘉の乱)。しかし、洛陽を落とす際に劉曜に断り無しに入城し、略奪を咎められたりしたことで劉曜と対立するようになった。
劉聡から大将軍・斉公とされ、自らの軍をまとめて東へ帰り割拠しようとしたが、途中で石勒から宴席に誘い出され殺された。王弥の勢力は石勒に取り込まれ、以後の東方平定は石勒が代わりに務め、後に石勒が前趙から自立する足掛かりとなった。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「王弥」の詳細全文を読む




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