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王思政(おう しせい、? - 550年)は、中国の南北朝時代の軍人。字は思政。本貫は太原郡祁県。 == 経歴 == 州主簿の王祐の子として生まれた。成長すると容貌魁偉で、計略術策の才能があった。北魏の正光年間、員外散騎侍郎を初任とした。524年(正光5年)、宿勤明達らが豳州・華州で反乱を起こすと、北海王元顥が軍を率いて討伐にあたり、思政はその下で従軍して、軍議に参与した。元顥が洛陽に帰ると、思政は汝陽公元脩に賓客として召されて、厚遇された。532年(太昌元年)、元脩(孝武帝)が皇帝に即位すると、思政は安東将軍の号を受け、祁県侯に封じられた。高歓との対立が深まる孝武帝にたのみにされ、中軍大将軍・大都督に任じられ、宿衛の兵を統率した。思政は関中に入って宇文泰と同盟するよう孝武帝に勧めた。534年(永熙3年)、孝武帝が関中に入ると、思政は太原郡公の爵位を受けた。 西魏が建国されると、思政は宇文泰に忠誠を誓って、驃騎将軍の号を受けた。537年(大統3年)、独孤信の下で洛陽攻略に参戦し、陥落後は洛陽に駐屯した。538年(大統4年)、河橋・邙山の戦いに参戦し、下馬して長矟を左右に振るいながら奮戦した。敵陣に深入りして重傷を負い、一度は東魏軍に捕まったものの、将帥と思われなかったために釈放された。帳下督の雷五安に助けられて、夜半に自陣に帰ることができた。そのまま弘農に駐屯した。思政は玉壁の地が難攻の要地であるとみなして、築城を願い出て、ここに移鎮した。玉壁に駐屯したまま、并州刺史に転じた。 542年(大統8年)、東魏の高歓が玉壁に進攻してきたが、思政は防備を整えていたため、昼夜を分かたぬ包囲攻撃を受けても城を守り抜き、東魏軍を撤退に追いこんだ。功績により驃騎大将軍の号を受け、再び弘農に駐屯するよう命じられた。玉壁を去るにあたって、宇文泰に代任の推薦を求められ、思政は部下の都督の韋孝寛を推挙した。後に東魏が再び玉壁に進攻してきたとき、韋孝寛はやはり玉壁を守り抜いた(玉壁の戦い)。弘農に入った思政は、城郭を修理し、楼櫓を建て、農業を経営し、食糧を備蓄して、防備を整えた。 546年(大統12年)、特進の位を加えられ、尚書左僕射・行台・都督・荊州刺史の任を兼ねた。荊州では城の堀の多くが壊れていたため、思政は都督の藺小歓に命じて工匠を動員し、これらを修理させた。ときに黄金30斤を掘り当てたが、「人臣が私に有するは宜しからず」と言って、封を施して長安に送ったため、宇文泰からの賞賛を受けた。 547年(大統13年)、侯景が東魏に叛き、梁・鄭の地で東魏軍の攻撃を受けた。侯景は西魏に来援を求めた。思政は荊州の1万あまりの兵を率いて、魯関から陽翟に向かい、穎川に入って駐屯した。侯景は豫州に向かい、南朝梁に降伏してしまった。思政は諸軍を分遣して、侯景の拠っていた7州12鎮を占領した。宇文泰は侯景に授けていた使持節・太傅・大将軍・兼中書令・河南大行台・河南諸軍事の任を思政に与えることとしたが、思政は固辞して受けなかった。しきりに使者が説得に来たため、河南諸軍事の任だけを受けた。 548年(大統14年)、大将軍に任じられた。東魏の太尉の高岳や行台の慕容紹宗と儀同の劉豊らが、10万の兵を率いて穎川に攻め寄せた。東魏軍は昼夜を分かたず攻め立てたが、陥落しないとみると、洧水をせきとめて城を水攻めにした。ときに慕容紹宗と劉豊および慕容永珍が船に乗って視察していたところ、にわかに暴風が起こって船は城下に吹き流された。慕容紹宗は水に身を投げて死に、劉豊は矢に当たって斃れた。思政の兵が船を鹵獲すると、慕容永珍をも捕らえることができた。思政は手ずから慕容永珍を斬り、慕容紹宗の遺体を収容させて、礼をもって埋葬した。 東魏の高澄がこのことを聞くと、11万の兵を率いて穎川に来攻した。高澄自らが堰下で工事を督励すると、城に向けて流れ込む水量は増え、城の北面が崩壊し、城内は足を置く場もなくなった。思政は天を仰いで慟哭し、西向きに再拝して自刎しようとしたが、都督の駱訓に止められた。高澄が常侍の趙彦深を派遣して説得すると、思政は東魏に降伏し、高澄と面会した。高澄は思政を厚く礼遇した。 北斉が建国されると、思政は都官尚書・儀同三司となった。死去すると、本官に加えて兗州刺史の位を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王思政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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