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王浚(おうしゅん、252年 - 314年)は、中国・西晋末から五胡十六国時代の将軍・政治家。字は彭祖。父は武帝の側近の王沈で母は趙氏。庶子だったが父の正室に子がなかったので嗣子となった。妻は崔毖〔崔琰の曾孫にあたる。後に王浚は岳父を東夷校尉とした(『資治通鑑』87巻晋紀9)。〕の娘。 == 生涯 == 恵帝の治世下、賈氏政権下では東中郎将となり、許昌に派遣された。賈氏が没落すると寧朔将軍・都督幽州諸軍事となり、薊城に依拠した。303年に鮮卑族の段部の長段務勿塵に娘を嫁がせて同盟し、幽州での地盤確立に努めた。 八王の乱に際しては中立の立場を維持し、領内の人々の参戦を禁じた。しかし、成都王司馬穎が王浚を討とうとして和演を派遣すると和演を殺し、304年8月に烏桓・鮮卑段部・并州刺史司馬騰(東海王司馬越の弟)と結んで鄴を占領した。以降は司馬越支持を鮮明にし、八王の乱後に恵帝が洛陽に帰ると、驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事・幽州刺史となった。 306年に懐帝が即位すると司空に任ぜられた。匈奴の首長で漢(前趙)の皇帝劉淵の部将石勒と冀州をめぐり攻防を繰り広げ、当初は段部の支援を得て優勢であった。311年6月、永嘉の乱で漢が洛陽を占領すると王浚は尚書令と称し、皇帝に即位しようとしたが、反対する臣下を誅殺したため、人望を失った。 312年末、武将の王昌、段務勿塵の息子段疾陸眷らに命じて襄国の石勒を攻撃させた。しかし、石勒は段務勿塵の甥段末波を捕らえて段部と講和し、王浚との離間を図ったため王浚と段部は衝突、烏桓と鮮卑の支持を失い急速に没落していく。翌年には段部を討とうとして鮮卑の拓跋猗盧・慕容廆に命じて攻撃させたが失敗した。 314年、石勒の帰順を信じて迎え入れたが、捕らえられ斬られた。幽州は石勒が獲得し、東に勢力を拡大していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王浚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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