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王 潮(おう ちょう、生年不詳 - 乾寧4年12月6日(898年1月2日))は、中国五代十国時代の十国の一つである閩の初代王・王審知の兄。字は信臣、光州固始(現在の河南省固始県)の人。 == 生涯 == === 入閩以前 === 唐末に固始県史に任じられる。弟の王審邽、王審知とともに才能と気宇をもって知られ、郷里で「三龍」と並び称されていた。中和元年(881年)、寿州(現在の安徽省寿県)の首領である王緒により軍正に任じられて資材管理の任にあたり、公正さによって士卒の信頼を得た。 中和年間に入ると、蔡州の流賊秦宗権が次第に勢力を拡大しはじめた。王緒は秦宗権に従って光州刺史に任じられたが、秦宗権が黄巣と戦うために軍を召集した際に留まって出陣しなかったため、秦宗権の攻撃を受けた。(ただし新唐書によれば秦宗権に対する賦税が滞ったことが理由という。) そこで王緒は中和5年(885年)、劉行全らとともに軍衆を率いて南方の福建方面に逃走し、王潮らもこれに従った。途中、秦宗権の追撃をおそれた王緒が軍中の老幼者の処刑を命じ、王潮ら兄弟の老母もその対象となった。王潮らは老母の前にまず自分たちを処刑するように求め、諸将もこれに同調したため、ついに王緒は王潮兄弟の母親の殺害を断念した。このころ術師が軍中に「暴気」があると告げたため、王緒は勇猛で才能ある士卒たちを事あるごとに処刑し、副将の劉行全も粛清の犠牲者となった。王潮らは王緒の猜疑心に反感を抱き、南安で叛乱を起こして王緒を捕らえた。軍はみな万歳を叫び、先鋒の将は「我らの生命の恩人は王潮である」として彼を新たな首領に推した。王潮は固辞して剣を地面に突き刺し、「拝して剣が三度動いた者を指導者としよう」と言ったが、弟の王審知の番になると剣が地中から躍り出たため、群衆は驚嘆して王審知を礼拝した。しかし彼は兄である王潮に首領の地位を譲り、自身は副将となった。王潮は「天子は蒙難している。これより広州に向かい、転じて巴蜀(四川)に入って王室を助けよう」と呼号して南方へ進軍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王潮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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