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王 猛(おう もう、325年 - 375年)は中国の前秦の苻堅に仕えた宰相。字は景略。苻堅の覇業を全面的に補佐した賢臣で、華北統一に貢献した。 == 生涯 == 北海郡剧県(今の山東省寿光市/維坊市)の出身〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P204〕。漢人の有力貴族の家に生まれたが家は貧しく、もっこ(竹や藁を編んで作り、物を盛って運搬する道具)を売って生計を立てていたが、細事にはこだわらず博学で殊に兵書を好んだ〔。 354年に東晋の桓温が前秦を北伐したときに訪ねていき、虱をつぶしながら天下の大事を堂々と論じ合ったという〔駒田『新十八史略4』、P110〕。この際、桓温が「わしは天子の命令を奉じて逆賊と戦っているのに、秦の豪傑の中にわしの所に来る者がないのはどうしたわけだと思うか」と尋ね、王猛は「将軍は数千里を通しとせず、深く敵の領土に侵入して今は長安の間近に迫っておられる。しかるに、あなたは覇水を渡ろうとはされない。これでは人民には貴方がどう考えておられるのか、わからんではないか。だから誰も来ないのです」と述べ〔、桓温は「江東には君のような人物はおらぬよ」と述べて東晋への仕官を勧められたがこれを断った〔駒田『新十八史略4』、P111〕。後に異民族の王・苻堅の枢機に参与したが、苻堅とは即位する前から知り合った仲でたちまちの内に身分を越えた仲になった〔。 苻堅は「劉備が諸葛亮を得たのと同じように大切な存在だ」と言って王猛を重用した。王猛は儒教に基づく教育の普及、戸籍制度の確立、街道整備や農業奨励など、内政の充実に力を注ぎ、氐族の力を抑えて民族間の融和を図った。一方、軍事面でも370年に前燕に対して王猛自ら軍を率いて侵攻し、6万の前秦軍に対して前燕は40万の大軍であったが、前燕軍を率いる慕容評の暗愚と拙い指揮もあり、決戦して5万の戦死・捕虜を数え、さらに追撃して10万を得る大勝を挙げた〔駒田『新十八史略4』、P114〕。376年に前涼をそれぞれ滅ぼして中国北部を統一し、この時代ではまれにみる平和な時代を築き上げたが、王猛自身は前涼滅亡の前年である375年に死去した。享年51。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王猛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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