|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) ・ 用 : [よう] 1. (n,n-suf) task 2. business 3. use
王 用賓(おう ようひん)は、清末、中華民国の政治家・軍人。清末は革命派として活動し、民国時代は孫文(孫中山)に追随して中国国民党・国民政府で要職に就いた。字は太蕤。号は鶴村。 == 事績 == === 革命派としての活動 === 儒者の家に生まれる。家が貧しかったため、父の王盈伯は学問を捨てて商売をなし、それにより王用賓の学費を賄った。1904年(光緒30年)、王用賓は日本への留学生に選抜され、法政大学で学んだ。翌年に中国同盟会に加入し、同盟会山西支部長として山西省からの革命派留学生の指導者となる。帰国後は、太原で革命派の『晋陽公報』を創刊して総編輯の地位につき、革命思想の宣伝につとめた。何度も官憲の取締りに遭い、日本への亡命も余儀なくされたこともあったが、王は革命活動を堅持している。また、革命派の有力者・呉禄禎を擁立して山西での蜂起も図ったが、呉が暗殺され叶わなかった。〔蕭(2005)、119-120頁。〕〔徐主編(2007)、84頁。〕〔劉国銘主編(2005)、147-148頁。〕 1911年(宣統3年)10月に、山西省でも武昌起義に呼応して革命派が蜂起し、閻錫山が都督となった。王用賓も、閻の招聘に応じて山西省に戻る。王は河東兵馬節度使に推戴されて、清軍と戦った。中華民国成立後、王は臨時省議会議長となり、1913年(民国2年)には、参議院議員に当選した。同年、二次革命(第二革命)に参加して袁世凱と戦ったが、敗北に終わる。〔蕭(2005)、120頁。〕〔〔劉国銘主編(2005)、148頁。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王用賓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|