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王 纉緒(おう さんしょ)は中華民国の軍人。四川軍(川軍)の有力指揮官で、四川省の内戦や日中戦争などを戦った。字は紫泥。号は治易、屋園居士。 == 事績 == === 北京政府時代の活動 === 富裕な家庭に生まれ、初めは学問を志し、1903年(光緒29年)に秀才となった。しかし軍人の道に転じて、1907年(光緒33年)、四川軍事講習所に入学し、翌年に四川陸軍速成学堂に進学した。〔徐主編(2007)、194頁と劉国銘主編、246頁によれば、四川弁目学堂(徐主編は「牟目学堂」としているが、誤りと思われる)を卒業、としている。〕同期生には劉湘、楊森、唐式遵、潘文華などがおり、後に四川軍において「速成系」と呼ばれる派閥を形成することになる。卒業後は四川陸軍に加入した。〔馬(2002)、288頁。〕〔徐主編(2007)、194頁。〕〔劉国銘主編(2005)、246頁。〕 中華民国成立後も、王纉緒は引き続き四川軍内で昇進を重ね、1915年(民国4年)12月からの護国戦争では、北京政府側の劉湘配下として戦う。1918年(民国7年)4月、川軍第2師第8団団長となり、1920年(民国9年)3月からは楊森配下に転じて、5月に旅長に昇進した。1922年(民国11年)6月、劉湘派の第2軍軍長となった楊森に従い、熊克武派の第1軍軍長但懋辛との戦い(「一、二軍之戦」)を開始したが、第1軍の前に大敗し、楊・王は武漢の呉佩孚を頼って逃亡した。以後、呉の援助を受けて、楊・王は軍勢を回復していく。〔馬(2002)、288-289頁。〕 1923年(民国12年)7月、北京政府から四川善後督弁に任命された劉湘に楊森・王纉緒も協力し、南方政府派の熊克武を撃破した。翌年3月、王は北京政府から陸軍少将に任ぜられ、6月、陸軍中将銜を授与された。王は楊から成都市姿勢督弁にも任ぜられている。1925年(民国14年)、楊が四川統一の戦いを開始すると、王は第1師師長兼北路総指揮に任ぜられる。しかしこの頃になると、王は楊の権力独占や縁故政治に不満を抱くようになる。劉湘が第16師師長兼四川塩運使の地位をもって王への篭絡を行うと、王もこれに応じて楊に反旗を翻し、楊を敗退させた。その後、王は実際に第16師師長兼四川塩運使に任ぜられている。〔馬(2002)、289-290頁。〕〔徐主編(2007)、194-195頁によると、第16師師長には北京政府から1925年8月に任命され、四川塩運使には1931年5月に国民政府から任命されている。〕〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王纉緒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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