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王 陵基(おう りょうき、)は、中華民国の軍人。四川省の有力軍人で、後に国民革命軍でも指揮官として活動した。号は方舟。 == 事績 == === 四川軍での台頭 === 絹織物商の家庭に生まれる。1903年(光緒29年)7月、四川武備学堂速成班で1年学習した。その後、日本に留学し、東斌学堂と成城学校で学んでいる。1906年(光緒32年)に帰国すると、四川の新軍で軍務に就きチベットに赴任した。1908年(光緒34年)秋に四川陸軍軍官速成学校が創設されると、王陵基はラサから成都に呼び戻され、同校翻訳官に任ぜられる。当時、四川省では鉄道保護運動の発生等により革命派の活動が盛んであったが、王は革命派からの勧誘があっても拒絶を貫いた。〔劉識非(1997)、190頁。〕〔徐主編(2007)、140頁。〕〔劉国銘主編(2005)、216頁。〕 中華民国成立後も、王陵基は引き続き四川軍で団長として起用された。1913年(民国2年)、第二革命(二次革命)が勃発すると、四川都督胡景伊の命により王は重慶で蜂起した革命派の熊克武を撃破した。1915年(民国4年)12月、護国戦争が勃発すると、四川督軍陳宧の下で四川軍第1師第4団団長に任命されて護国軍と戦い、まもなく第3師第5旅旅長に昇進している。翌1916年(民国5年)5月に陳が護国軍側へ寝返り独立を宣言すると、袁世凱支持派の四川軍軍人周駿を支持して陳を攻撃した。ところが6月に袁が死去してしまい、後ろ盾を失った周・王はいずれも下野を余儀なくされる。その後、王は山東省で煙台鎮守使に任ぜられる。さらに北京政府中央で要職を得ようと活動したものの、成果は無かった。〔劉識非(1997)、190-192頁。〕〔〔 1921年(民国10年)2月、王陵基は重慶に拠っていた四川軍第2軍軍長楊森を頼り、同軍参謀長に任ぜられた。その後、楊森を補佐して他の四川軍指揮官と戦うも、翌年に楊が敗北して湖北省へ一時脱出したため、王はその下を離れて四川に留まった。1923年(民国12年)7月、劉湘が四川善後督弁に任ぜられると、王はその配下に転じる。翌年、第28混成旅旅長に昇進し、1925年(民国14年)には四川軍第3師師長兼江巴衛戌司令となった。〔劉識非(1997)、192頁。〕〔〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王陵基」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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