翻訳と辞書
Words near each other
・ 琉球語
・ 琉球語派
・ 琉球諸島
・ 琉球諸島における経済的社会的発展の促進に関する法律
・ 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定
・ 琉球諸語
・ 琉球警備連隊
・ 琉球警察
・ 琉球警察本部
・ 琉球豆豚
琉球貿易
・ 琉球軍
・ 琉球通宝
・ 琉球郵便
・ 琉球郵政庁
・ 琉球郷
・ 琉球銀行
・ 琉球銀行 (特殊銀行)
・ 琉球銀行若松支店強盗事件
・ 琉球開発金融公社


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

琉球貿易 : ミニ英和和英辞書
琉球貿易[りゅうきゅうぼうえき]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たま, きゅう]
 【名詞】 1. globe 2. sphere 3. ball
貿易 : [ぼうえき]
  1. (n,vs) trade (foreign) 
: [えき]
 【名詞】 1. divination 2. fortune-telling

琉球貿易 : ウィキペディア日本語版
琉球貿易[りゅうきゅうぼうえき]
琉球貿易(りゅうきゅうぼうえき)とは、琉球王国日本・中国()・朝鮮東南アジア(南海諸国)の間で行われた貿易のこと〔上原『日本歴史大事典』「琉球貿易」〕。
琉球は土地の生産力が乏しく、貿易はもっぱら日本や南海諸国などの産物を仲介することをその根幹としていた〔岩生『日本歴史大辞典』「琉球貿易」〕。14世紀に入ると、琉球本島(現在の沖縄島)には北山中山南山と呼ばれる政治勢力が成立するが、その形成を促したのも日本や中国などとの対外貿易の展開に伴う在地首長層の成長があったと考えられている。北山は運天、中山は那覇、南山は馬天という有力な貿易港を有していた〔。1372年、建国間もない明の洪武帝の招きに応じて、琉球の三国が相次いで朝貢を行い、冊封を受けた。また、1414年には中山の尚巴志が日本の室町幕府に遣使を行った。この間に尚巴志が残り2国を滅ぼして琉球王国が成立した〔。
明への朝貢使による貿易は時期によって異なるものの、1年もしくは2年に1回、特によっては年に2回派遣を行っている〔。日本に対しては2年もしくは3年に1度使者を派遣していたが、応仁の乱による日本国内の政情不安により次第に博多の商人の方から琉球を訪れるようになった〔。日本や明に対する献上品の中には東南アジアなどの南海諸国で取れる蘇木や胡椒があるように、東南アジアにも使者を派遣していたと考えられており、特にマラッカ王国シャムがその対象であった。〔。明との交易においては皇帝への朝貢品として琉球で取れる硫黄、日本産の刀剣、東南アジア産の胡椒蘇木象牙などが進上され、これに対して明国皇帝からの頒賜品名目で多額の金品が与えられたほか、琉球の使臣・随伴者が持参した商品は明側が買い上げる形での私貿易が行われた。また、明から入手した銅銭はその需要が高い日本との貿易で用いられた〔。
16世紀に入ると、琉球の貿易に陰りが見え始める。原因としては後期倭寇の活発化、ポルトガル勢力のマラッカ占領などによって琉球船の活動が制約されたこと、そして、日本から琉球へ向かう海上航行権を巡って薩摩国島津氏の発言力が高まり、やがて貿易の独占を志向するようになったことによる〔。島津氏と琉球の関係は琉球王国の成立時には成立したと考えられているが、1471年に室町幕府が島津氏に琉球への渡航船の取締を命じたことから、海上航行権の掌握に乗り出した〔なお、島津氏が琉球貿易の独占を志向し始めた16世紀前半から1609年の琉球出兵の頃にかけて島津氏側が琉球への干渉を正当化しようとした虚偽とみられる事実の創作を行ったとみられている。代表的なものは、島津氏が室町幕府6代将軍足利義教より琉球を賜ったとする「嘉吉附庸説」や1516年に備中の住人である三宅和泉守国秀が琉球征服を企てたのを島津氏が阻止したとされる「三宅国秀事件」などである(小山論文、2014年、P139-141)。〕。ところが、島津氏の内紛が長きにわたって続き琉球への具体的な介入には至らなかった〔小山博「中世の薩琉関係について」『鳴門史学』7号(鳴門教育大学、1993年)のち、新名一仁 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年)所収〕。長年の内紛が終息した島津氏が肝付氏らを破って南九州の支配権を回復する(1575年以降)と肝付氏から志布志・串間などの港湾を没収して直轄化し、種子島氏・禰寝氏・頴娃氏などこれまで独自に琉球との交易を行ってきた島津氏傘下の国人領主に対しても厳しい貿易統制を行って島津氏への貿易独占化を図った〔。一方、琉球に対しても強硬な態度を取り、島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶との交易の停止を要求すると、琉球側はこれを拒絶する(島津氏は以前から倭寇対策を名目に島津氏の渡航朱印状を持たない船との交易の停止を求めてはいたが、琉球側は曖昧な対応を取っており、島津氏側もこれを強制する術を持たなかったが、ここにきて強硬な対応に転じたのである〔)。両者の関係は敵対関係に転じ、やがて1609年薩摩藩(島津氏)による琉球出兵に至る〔。薩摩藩の出兵の背景には藩の財政難などに代表される領主的危機感の高揚にあった。実際、出兵直後においては琉球から奄美を奪って蔵入地にしたり琉球から租税の徴収を行ったりしている〔。
薩摩藩の琉球出兵の動きを知った明側は琉球の使節派遣を10年に1度に制約するなど頑なな態度を取っていたが、1634年には2年に1度に戻されている〔。また、明に代わって中国本土を掌握した清も琉球国王に冊封を与え、福州琉球館の設置を許した〔。同じころ、鎖国政策を取っていた江戸幕府は貿易の維持のために薩摩藩の琉球を介した貿易を容認する姿勢を示した。だが、それは琉球王国にとっては生糸薬種など日本(江戸幕府および薩摩藩)が必要とする品を確保・献上する義務を負う事になった〔。
17世紀中期に入ると明清交替に伴う混乱や清に抵抗する台湾鄭氏政権による妨害(琉球王国は清から冊封を受けていたため)、江戸幕府の貿易統制が間接的に琉球貿易にも適用される(貿易額の制限など)等によって琉球貿易は苦難の時代を迎える。だが、中国から日本へ生糸・薬種・砂糖をもたらし、日本から中国へは干鮑昆布などの俵物をもたらした琉球貿易は幕末期(19世紀中期)に至るまで東アジアの貿易では大きな役割を果たして長崎の会所貿易を脅かす程の存在感を持ち、その利益を掌握してきた薩摩藩の財政に対する貢献も大きかった〔。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「琉球貿易」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.