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キシャン( 転写:Kišan〔「鮮明」の意〕、琦善、きぜん、1790年 - 1854年)は清の官僚。字は静庵。ボルジギト氏、満州正黄旗人。 父のチェンデ(Cende、成徳)は杭州将軍や熱河都統を歴任。その功でキシャンは1806年に刑部員外郎となった。その後布政使や巡撫などの職を歴任し、直隷総督・文淵閣大学士に至った。1840年の阿片戦争の際には林則徐の後任として両広総督となる。キシャンはイギリス艦隊の装備の充実ぶりを見て、砲台の守備軍を撤退させてイギリス軍と交渉を行った。こうして香港の割譲と600万両の賠償金を内容とする川鼻仮条約が調印されたが、道光帝は香港の割譲に激怒してキシャンを罪に問うて罷免した。 1842年、アヘン戦争が終結すると復権し、駐箚大臣としてラサに派遣された。1852年、太平天国の乱鎮圧の欽差大臣に任命され、江蘇省の防衛のために揚州近郊に江北大営を建設して騎兵・歩兵1万8千人を配置した。1854年、陣中で死去。文勤の諡号が贈られた。 ==外部リンク== *国学ネット — 原典宝庫 :『清史稿』 巻三百七十 列伝一百五十七 category:清代の人物 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キシャン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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