|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 琴 : [きん, こと] 【名詞】 1. koto (Japanese plucked stringed instrument) ・ 礼 : [れい] 【名詞】 1. expression of gratitude
琴禮 巨樹(ことゆたか なおき、1981年6月17日 - )は、福岡県築上郡築上町出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の元大相撲力士。身長184cm、体重147kg、血液型はB型。本名は、椎葉 巨樹(しいば なおき)。得意手は左四つ、寄り。最高位は、西十両5枚目(2012年11月場所)。 == 人物 == 父親は自衛官で、沖縄県那覇市の自衛隊那覇病院で産まれる〔雑誌『大相撲中継』 2009年名古屋場所展望号「新十両力士の素顔」〕。椎田中学校時代は柔道部に所属し、3年生の時には福岡県大会で準優勝した。その前年に大分県別府市で行われた冬巡業を見に行った際に当時の佐渡ヶ嶽親方(元横綱・琴櫻)の目に留まり「3年で幕内に上がれる」とスカウトされた。中学卒業後に佐渡ヶ嶽部屋へ入門し、1997年3月場所に「琴椎葉」の四股名で初土俵を踏んだ。 初土俵から丸5年を要して2002年1月場所に幕下へ昇進したが、その頃の琴禮は「3年で幕内に上がれる」という当初の期待に応えられず頭を抱えたという。それでも当の佐渡ヶ嶽から「あれはあくまで口説き文句。余計なこと考えないで頑張りなさい」と説得され、以降奮起を図った。それから数年間は幕下と三段目との往復が続いた。5回目の幕下昇進を果たした2005年5月場所に、四股名を「琴椎葉」から「琴禮」へと改名した。2006年3月場所では東幕下42枚目の位置で7戦全勝の成績を挙げて、初の幕下優勝を果たした。 その後は幕下上位に定着するものの、長らく十両への昇進は果たせずにいた。しかし、2009年3月場所に西幕下3枚目の位置で4勝3敗と勝ち越し、翌5月場所でも東幕下2枚目の位置で4勝3敗と勝ち越しを決め、翌7月場所において新十両へ昇進した。 新十両となった2009年7月場所では7勝8敗と負け越し、翌9月場所では幕下へ陥落したものの、翌9月場所では4勝3敗と勝ち越しを決め、翌11月場所において十両へ復帰した。その11月場所では4勝11敗と大敗し、翌2010年1月場所では再び幕下へ陥落した。 その後も幕下上位には在位するもののなかなか十両への復帰は果たせず腰の状態の悪さ〔『相撲』2012年8月号91頁に「もともと腰に持病を持ち、四股が10回連続で踏めない」という記述がある。〕から2012年1月場所前には引退を考えていたが兄弟子の琴国の存在が心の支えとなって続投を決意した。2012年5月場所に東幕下6枚目の位置で6勝1敗の好成績を挙げ、翌7月場所でも東幕下筆頭の位置で5勝2敗と勝ち越しを決め、翌9月場所に3年ぶりに十両へ復帰した。 再十両となった2012年9月場所では9勝6敗の成績を挙げて、関取としては自身初となる勝ち越しを果たした。翌11月場所では自己最高位となる西十両5枚目の位置まで番付を上げたが、8日目に旭秀鵬と対戦して敗れた際に左足甲を痛めてしまい、翌9日目からは休場した〔この9日目には本人を含めて幕内・碧山など4人の関取が同時に休場し、4人の関取が同日から休場したのは1場所15日制が定着した1949年5月場所以降では初めてのこととなった。〕。本人は14日目から再出場したが、対戦相手の政風が同日から休場したためにその日は不戦勝となり〔休場した力士が再出場した日に不戦勝を記録したのは、2003年5月場所における栃栄以来のこととなった。〕、最終的にはこの場所を4勝7敗4休の成績で終えた。2013年1月場所では怪我の影響もあり、6日目から10連敗を喫して2勝13敗と大敗し、翌3月場所において幕下へ陥落した。 東幕下19枚目の位置で全休していた2013年5月場所14日目に現役引退を発表した。同年8月31日に両国国技館で断髪式を行い、横綱白鵬ら約170人がはさみを入れた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「琴禮巨樹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|