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琵琶島城(びわじまじょう)は、新潟県柏崎市にあった日本の城。 築城年は不明だが、伊豆の豪族であった宇佐美氏が、南北朝時代の初期、越後守護職に任ぜられた上杉憲顕に従って越後に入った時に、築城したと言われる。 鵜川の蛇行地点であり、また、支流との合流地点でもあったために、川が天然の堀を形成。当時としては越後有数の規模であった柏崎湊とも近い上に、川で繋がっていたため、軍事は勿論の事ながら、物資輸送の管理においても重要な場所であった。 宇佐美氏は、度々起こった越後守護の上杉氏と守護代の長尾氏の争いにおいては、常に上杉方に組している。これは前出の通り、上杉家の随臣であったためである。 その後、当主宇佐美定満は、長尾氏の臣下となり、上杉謙信の軍師として活躍したとされるが、永禄7年(1564年)、謀反の疑いがあった長尾政景と共に、坂戸城近くの野尻池で溺死した。この事で宇佐美氏は没落した。 宇佐美氏没落後は、前島修理亮が城主となる。前島修理亮は、御館の乱において、上杉景虎支持にまわる。上杉景勝は、枇杷島城近くの旗持城の城将・佐野清左衛門尉宛てに、枇杷島城への警戒、枇杷島城から御館への物流の阻止、そして枇杷島城をどうしても味方に引き入れるように、との手紙を出している。この事から、枇杷島城の軍事的・経済的重要性が高かった事が伺える。結局は、御館への物資輸送を船で行おうとしたが、佐野清左衛門尉の攻撃により失敗し、まもなく降伏・開城した。 乱後は桐沢具繁が入城。在城料として、乱で没落した北条家の所領(現、柏崎市北条)を与えられている。 慶長3年(1598年)の上杉家の会津移封に従い、廃城。 遺構は、昭和初期まで土塁などが残っていたが、河川改修や柏崎総合高校(前、柏崎農業高校)建築により、失われた〔柏崎市の現地案内板など〕}。 また、甲州武田氏と幾たびも取り合いとなり、宇佐美定満溺死の野尻湖にある野尻城も、枇杷島城とも呼ばれていた〔平井聖「日本城郭大系〈第8巻〉長野・山梨 」〕。 ==脚注== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「琵琶島城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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