|
甘糟 継成(あまかす つぐしげ/つぐなり、天保3年3月12日(1832年4月12日) - 明治2年11月29日(1869年12月31日))は、江戸時代後期(幕末)から明治時代にかけての米沢藩の重臣。家格は侍組平侍。変名は「新保勘左衛門」。備後守。幼名は半蔵・虎之助。号は酔月楼。 == 経歴 == 甘粕氏は上杉謙信に仕えた重臣・甘糟景継から代々上杉氏に仕えた重臣の家柄である。謙信の養子・上杉景勝の時代に左遷されていたが、その後も米沢藩の重臣として仕えていた。ただし景継のような武勇肌の武士ではなく、学者として仕えていたようであり、継成の父親も米沢藩侍講組として仕えていたようである。 継成は幼い頃から聡明で、藩校・興譲館で学んで才能を発揮し、早くから「神童」と称えられた。そのため藩主・上杉斉憲に仕えて学館典籍に任じられる。文久2年(1862年)からは斉憲と共に京都・江戸に赴き、諸大名や公卿・藩士との交渉を務めた。しかし継成はやはり学者だったようであり、慶応元年(1865年)には御記録頭取に任じられて「西洋通記」・「亜米利加国史」など歴史書の編纂に努めている。 慶応4年(1868年)1月から始まった戊辰戦争では、軍務参謀に任じられて新政府軍と戦い、越後長岡城奪還作戦のために兵員増員を藩に要請して戦ったが、敗れた。その後、米沢藩が新政府に降伏すると謹慎を命じられた。 明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄が土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。藩費による英学の東京勤学を認められ、慶應義塾の教授・吉田賢輔を介して福澤諭吉や小幡篤次郎らの教えを受ける。4月に入ると14歳の長男・甘粕鷲郎(竹太郎)を上京させ、慶應義塾に入学させた。後に鷲郎は手代木勝任の娘と結婚し、その娘の初子は新島八重の養女となっている。 同年7月、待詔院出仕が決まるがまもなく死去。享年38。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甘粕継成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|