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甘英 : ウィキペディア日本語版
甘英[かん えい]
甘 英 (かん えい、ウェード・ジャイルズ記法:Kan Ying、生没年不詳)は、字は崇蘭、後漢の人。ローマに派遣された中国の軍事大使であり、紀元97年西域都護であった班超の命によって、当時大秦と呼ばれていたローマとの国交を開く任務を託された。彼は、7万人の規模を持った班超の遠征軍の一員であり、甘英は軍と共に、パルティア王国の西の国境まで到達した。
== 概説 ==

甘英はおそらくローマには到達しなかったと考えられるが、少なくとも歴史に記録されている限りでは、古代において、中国人としてもっとも西方へと旅した人物である。
後漢(紀元25年-紀元220年)の歴史を記した『後漢書:西域伝·安息伝』の記述に従えば:
:「(和帝永元九年(紀元97年)、班超はその副官である甘英を、「西の海」の海岸と、途上の諸地域へと派遣し、帰還を命じた。これ以前の時代には、誰もこれらの地域に到達した者はおらず、『山海経』にも詳細は記述されていなかった。甘英は探検旅行で知ったすべての国々について、その慣習や地勢に関する報告書を作成した。」(『後漢書』 : レスリーとガーディナーによる引用)
(九年,班超遣掾甘英窮臨西海而還。皆前世所不至,山經所未詳,莫不備其風土,傳其珍怪焉。於是遠國蒙奇、兜勒皆來歸服,遣使貢獻。。)
『後漢書』の別の部分には、また以下の記述がある:
:永元9年(紀元97年)、班超はその副官である甘英を大秦へと派遣し、(甘英は)條支を通過して、安息(パルティア)の西の境において、「大海」(ペルシア湾)の岸へと到達した。」(『後漢書』88)
(和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度。)
甘英はローマ(中国では当時「大秦」と呼ばれていた)についての報告を残したが、それは間接的な資料に依拠せざるを得ない。彼はローマの位置を、「海」の西側に比定している:
:「その版図は何千にも渡る領域に及び(「里」は中国での里であり、およそ500メートルほどである)、城壁で囲まれた 400 を越える都市を含む。数十の小国が臣従している。都市の外壁は石造りである。駅舎制度が確立されている。……松とイトスギが生えている。」(『後漢書』 : レスリーとガーディナーによる引用)
(大秦國一名廣鞬,以在海西,亦云海西國。地方數千里,有四百餘城。小國役屬者數十。以石為城郭。列置郵亭,皆堊塈之。有松柏諸木百草。)
彼はまた、ネルウァによる養子制度での帝位継承について述べており(ネルウァはトラヤヌスを養子として、彼に帝位を譲った)、ローマ人の身体外見やその産物などについても述べている:
:「王については、世襲で決まっているのではなく、もっとも資質に適う者が選ばれている。……この国の人々は長身で、釣り合いの取れた容貌を持っている。人々は中国人に似ており、これが、この国が大秦( 大いなる)と呼ばれている理由でもある。土地からは、多くの金や銀、また、夜光の玉を含む様々な珍しい宝石が産出する。……人々は、多彩な色を持つタペストリーダマスクを造るため、金糸を使って刺繍した布繊維を縫う。金塗装した布や、「火浣布(炎で洗った布)」(アスベスト)を造る。」(『後漢書』 : レスリーとガーディナーによる引用)
(其王無有常人,皆簡立賢者。國中災異及風雨不時,輒廢而更立,受放者甘黜不怨。其人民皆長大平正,有類中國,故謂之大秦。)
(土多金銀奇寶,有夜光璧、明月珠、駭□犀、珊瑚、虎魄、琉璃、琅玕、朱丹、青碧。刺金縷繡,織成金縷罽、雜色綾。作黃金塗、火浣布。又有細布,或言水羊毳,野蠶繭所作也。合會諸香,煎其汁以為蘇合。)
最終的に甘英は、シルクロードの西の端にある対極としてのローマを正しく把握した:
:「様々な、驚嘆すべきまた類稀な外国の物品はすべて、この国から齎されるのである。」(『後漢書』 : レスリーとガーディナーによる引用)
(凡外國諸珍異皆出焉)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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