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甘露寺 元長(かんろじ もとなが)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけての公卿。甘露寺親長の次男。妻は高倉永継の娘。法名は清空、道号は古月。子に甘露寺伊長。 == 経歴 == 兄の氏長が万里小路家を継いだために甘露寺家の後継者となる。文正元年4月8日(1466年5月22日)に叙爵され、左兵衛佐を経て、文明4年2月27日(1472年4月5日)に後土御門天皇の蔵人となり、5日後の3月2日(同年4月10日)には右少弁を兼ねた。4月4日(同5月11日)には17歳の元長が父とともに蔵人弁として参内して吉書の儀式を行い、天皇から父子揃って天盃を受けている(『親長卿記』・『五位蔵人初拝五代之記』)。以後、元長は文明13年12月3日(1481年12月23日)に蔵人頭(右中弁)就任を経て、文明18年8月9日(1486年9月6日)に右大弁兼参議に任じられて蔵人頭を辞任するまで、14年にわたって蔵人と弁官を兼務していた。その間、父・親長も伝奏(前権中納言)を務め、親子で朝廷の文書を発給できる状態にあった(この状態は後に明応9年(1500年)に権右少弁兼蔵人になった息子・伊長の下でも発生している)。 文明19年7月17日(1487年8月6日)に従三位に叙され、長享2年9月17日(1488年10月21日)に権中納言に任ぜられ、延徳3年12月18日(1492年1月17日)には正三位、文亀元年8月18日(1501年9月30日)には従二位に叙せられる。永正14年1月2日(1517年1月23日)には権大納言に任ぜられて同年4月18日(同5月8日)には正二位に叙され、永正16年9月27日(1519年10月20日)には民部卿を兼ねる。この間、明応5年6月27日(1496年8月6日)には貢馬伝奏、文亀4年8月19日(1504年9月27日)には賀茂伝奏を兼ねている。永正18年4月4日(1521年5月10日)には権大納言を辞するが、本座宣下が出され、大永6年5月8日(1526年6月17日)には従一位に叙せられた。翌大永7年(1527年)に72歳で薨去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甘露寺元長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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