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甘露寺 兼長(かんろじ かねなが)は南北朝時代・室町時代前期の公卿。甘露寺藤長の子。子に甘露寺清長・甘露寺房長・慈恩院兼覚・甘露寺経子(後小松天皇典侍)。 == 経歴 == 貞治3年/正平19年(1364年)に従五位上に叙され、永和4年/天授4年(1378年)に右少弁に任じられた後、永和5年/天授5年(1379年)に正五位上に叙され、以後弁官を歴任、永徳2年/弘和2年5月23日(1382年7月4日)には従四位下権左中弁であった兼長は蔵人の経験なく蔵人頭に任じられ、11月6日に参議に転じた(『公卿補任』)。この間に足利義満の家司となり、永徳元年/弘和元年(1380年)に開かれた義満の内大臣の任大臣大饗の行事役を務めている。永徳3年/弘和3年11月15日(1383年12月9日)には従三位に叙され、至徳3年/元中3年1月6日(1386年2月5日)には正三位、8月27日には権中納言となり、明徳3年/元中9年(1392年)までその地位にあった。明徳4年(1393年)に従二位、応永8年(1401年)に正二位に叙されたものの久しく散位にあり、応永16年7月23日(1409年9月2日)になって権大納言に任ぜられた。ところが、応永18年10月24日(1411年11月10日)に勧修寺経豊が勧修寺長者を奪い、権大納言の辞任を余儀なくされた。応永19年(1412年)には按察使に任じられている。 その後も後小松院の院司として活動し、その功績によって死の前日である応永29年2月7日(1422年2月28日)には従一位に叙せられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甘露寺兼長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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