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甘露寺 房長(かんろじ ふさなが)は室町時代前期の公家。甘露寺兼長の次男。子に甘露寺親長・三条西公保室(実隆の母)がいる。正四位上参議。 == 経歴 == 応永21年(1415年)に兄の甘露寺清長が薨去し、甘露寺家の家督を継ぐ。応永27年閏正月10日(1420年2月23日)に右少弁・蔵人に任じられ、翌応永28年12月21日(1422年1月14日)に左少弁に転じた。応永32年11月13日(1425年12月22日)の平野臨時祭において当時左中弁・蔵人であった房長は遅刻して称光天皇の怒りを買って勅勘処分の上に、甥の忠長(清長の遺児)に蔵人の位を奪われた。〔『薩戒記』応永32年11月16・30日条〕。だが、後花園天皇即位後の正長元年11月3日(1428年12月9日)に蔵人頭・参議に任じられ、更に左中弁から左大弁に進んだ(同日、忠長も参議に任じられ、更に右中弁から右大弁に進んでいる)。ところが、永享2年(1430年)2月に官職を免じられる。詳しい状況は不明であるが、将軍足利義教の御前沙汰の内容を万里小路時房に漏らした(ある事件において時房の家臣が関連が疑われていた)〔『建内記』永享2年2月29日条〕事が義教の怒りを買った可能性がある。この時、甘露寺家の家督を奪われて忠長に与えられ、忠長に房長父子の扶持を命じたという〔『建内記』永享11年6月9日条〕。間もなく、許されて復職している〔『建内記』永享2年10月14・18・21・25日条〕ものの、2年後に病没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甘露寺房長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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