|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 生 : [せい, なま] 1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed ・ 方 : [ほう] 1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way ・ 良 : [りょう] 【名詞】 1. good ・ 雄 : [おす] 【名詞】 1. male (animal)
生方 良雄(うぶかた よしお、1925年 - )は、日本の鉄道研究家。小田急電鉄で車両部長や運輸計画部長などを歴任した〔。 == 経歴 == 東京市牛込区(現在の東京都新宿区牛込)で生まれる〔。1929年、4歳の時に世田谷区経堂町に転居〔、その後、父親の仕事の関係で1934年から1940年までは中国東北部(満洲)の奉天市(現・瀋陽市)に移住する〔が、それ以外は一貫して経堂に在住している〔。日本大学理工学部在学中には、日大鉄道研究会の発足に関わった〔ほか、高松吉太郎が関わっていた東京鉄道同好会にも参加している〔。 1948年に日本大学を卒業し、東京急行電鉄(大東急)に入社〔。国鉄への就職も考えていたが、当時の国鉄は運輸省直轄で、港湾や気象庁に配属されることもあると聞き、地元の東急に決めたという〔。しかし、入社した時点で2か月後には分離独立することになっていたため、その年の新入社員は、車両部の一角に席はあったが仕事は何もなかったという〔。同年6月1日、分離独立した小田急電鉄に移籍〔、研修も兼ねて相武台工場に配属となったが、1か月ほどで本社運転課に異動〔、当時取締役運輸担当兼運輸課長であった山本利三郎の部下となる。この年の10月、山本から「連接車が走っているのはどこか」と質問を受け〔、生方が即答したところ、数日後に山本の随行者として、当時連接車として運用されていた西日本鉄道500形の視察に同行することになった〔。 その後、山本の下で同社3000形電車(SE車)の開発に携わる〔〔生方は自著の中で、「SE車の誕生と運転に携わることができた歓びは一生消えない」と述べている(『小田急ロマンスカー総覧』 p.172)。〕が、1955年には相模大野電車区長に異動〔。その後、企画室、運輸計画部などの部署で運輸計画業務に携わる〔。車両部長、運輸計画部長なども歴任している〔が、車両部門より運転部門にいた期間の方が長かったという〔。また、1959年ごろからは『鉄道ピクトリアル』など、鉄道雑誌への寄稿も行うようになる〔。 1979年以降は箱根ロープウェイに出向〔、同社の専務取締役となり、7年ほどは自宅からロマンスカーで通勤していたという〔。その後財団法人小田急電鉄事業団の理事も務める〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「生方良雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|