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生祀(せいし)とは、存命中の人間の霊を祀ること。生祠ともいう。功績があった存命中の他者の霊を祀る場合と、自己の霊魂を祀る場合とがある。 == 概略 == === 中国における生祠 === 前漢の欒布が燕の丞相であった時、燕と斉の間にその社を立てて、「欒公社」と呼んだ。また:zh:石慶が斉の丞相であった時、斉人は「石相祠」を建てた。これが生祠の始まりである〔趙翼『陔餘叢考』巻三十二『生祠』「此為立生祠之始」〕 唐代では、現任の官員が碑や祠を建てることに一定の制限があった。『唐律疏義』によればみだりに生祠や德政碑を建てたものは、「諸在官長吏實無政跡輒立碑者、徒一年(官吏で功績がないのに石碑を建てたものは、徒罪一年)」と徒罪一年の処分を受けなければならなかった。〔《唐律疏議》巻十一〈職制律〉〕。『日知録』では、唐は「當日碑祠之難得」と称し、石碑や祠を建てることが難しかったと語る。 明代では、滕州市の百姓が、当地で清廉な政治を行い燕京に赴任することになった:zh:趙邦清を記念して、生祠を作ったところ、「黃童白叟、羅而拜之(子供から年寄りまで、列をなして拝んだ)」という。 明の天啓帝の時代、宦官の:zh:司禮監:zh:秉筆太監であった魏忠賢は自ら政治を行って天下を支配し、媚びへつらうものや権勢を畏れるものは彼のために生祠を立てた。天啓七年(1627年)五月、国子監生の陸万齢は、「孔子は『春秋』を作り、忠賢は『要典』を作った。孔子は少正卯を誅し、忠賢は東林を誅した」ため魏忠賢は孔子と並び論じられるべきであると上書した。天啓七年四月、袁崇煥と兵部尚書の:zh:閻鳴泰は上奏して、魏忠賢の功德を讃え、前屯の両地に魏忠賢のため生祠を立てることを求めた〔『明熹宗実録』:"天启七年四月“薊遼總督閻鳴泰、巡撫袁崇煥疏,頌魏忠賢功德,請於寧前建祠,賜名懋德。」袁崇煥疏稱:「廠臣魏忠賢功在社稷,海內之共見共聞,業已銘刻金石,無容職贅,至其身任遼事,誓□恢復,梟滅逆虜,任用劉應乾、陶文、紀用等,而關內外禦敵之伏甲軍器馬匹懸簾等項,俱以家資置辦,日逐解來,又助軍需。臣方一意巡緝,嚴警諸營將吏,不敢貪懦營私,不敢餽遺隱串,改虛為實,化賈為真,易怯為勇,以有今日。浞古內臣誰有出其右者!"(『明熹宗七年都察院実録』天啓六年十月)〕。その後、魏忠賢の生祠は「天下にあまねく」、「祠ごとの費用は多くて数十万少くても数万を費やし」、「民の財を奪い、公けの金庫を侵し,伐られた樹木は数え切れない」という。黄運泰がを生祠作り塑像を迎えた時には「五拜三稽首」し、「文武の将吏を率いて階段の下に整列し、始めのごとく拝礼した」という。 顧炎武が嘆いていうには「今の代には生祠を建てない官はいない。そして任を去ってから幾年も経たずにその像を壊し、その主人を替える。」という〔《日知録》巻 23〈生碑〉、644ページ。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「生祀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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