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生野 初子(いくの はつこ、1907年4月27日 - 1967年〔菅家紅葉氏談話 、立命館大学、2009年11月17日閲覧。〕)は、日本の女優である。本名は出生名が生野 静子(いくの しずこ)、俳優の高木新平と結婚して高木 静子(たかぎ しずこ)となった。 == 人物・来歴 == 1907年4月27日、福岡県浮羽郡吉井町(現在の同県うきは市吉井町)に「生野静子」として生まれる〔『日本映画俳優全集・女優編』、キネマ旬報社、1980年、p.60, 奥田久司執筆「生野初子」の項。〕。 満12歳になる1919年(大正8年)に女歌舞伎の一座に入団し、熊本市内にあった旭座で初舞台を踏む〔。1924年(大正13年)1月、京都のマキノ映画製作所等持院撮影所に入社、阪東妻三郎主演、寿々喜多呂九平脚本、後藤秋声監督のサイレント映画『山猫の眼』に阪東の相手役として出演し、「生野初子」の名で映画界にデビューした〔〔。同年、寿々喜多脚本、井上金太郎監督の『女に甘い男の群』で高木新平と共演する〔女に甘い男の群 、日本映画データベース、2009年11月17日閲覧。〕。同年7月、マキノ映画製作所は東亜キネマに吸収合併される〔。沼田紅緑監督の『刃光』前篇・後篇以降、月形龍之介・高木新平・生野初子のトリオが生まれ〔、竜神虎彦監督の『何者?』(1925年)等で等持院撮影所に新風を呼んだ〔。 1925年(大正14年)、高木新平と結婚する〔〔。同年6月、東亜マキノからマキノ・プロダクションが分離独立し、御室撮影所を開所したが、月形・高木とともに東亜キネマ等持院撮影所に残留する〔〔。同トリオはその後も、二川文太郎監督の『乱刀 前篇』、『続 乱刀』、仁科熊彦監督の『和蘭蛇屋敷』前篇・中篇・後篇に主演する〔。1926年(大正15年)、仁科熊彦監督の『帰って来た英雄』前篇・後篇に高木とともに主演、同作で山上伊太郎が脚本家デビューを飾った〔。同年、高木とともに退社、舞台での実演の仕事を始める〔。 1927年(昭和2年)1月、夫とともに高木新平プロダクションを設立する〔〔。初期は松竹下加茂撮影所をレンタルして製作〔、ユニバーサル・ピクチャーズ日本支社が配給した。同年8月、松竹と絶縁し、京都・左京区浄土寺真如町に撮影所を建設、製作を続けたが、1928年(昭和3年)には解散、再び舞台での実演旅行に出る〔〔。同年4月、高木とともにマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した〔〔。1929年(昭和4年)、生野のみが帝国キネマ演芸長瀬撮影所に移籍した〔。翌1930年(昭和5年)、高木が帝国キネマに合流するが、同年9月30日、同撮影所が全焼、これを機に高木とともに退社する〔。高木とともに3度目の実演旅行に出る〔。 1933年(昭和8年)春、前年11月に御室撮影所に設立された宝塚キネマに高木とともに入社するが、脇役ばかりであった〔。同年中に同社が製作を停止し、1934年(昭和9年)4月には同社は正式に解散になる〔。同年6月、高木とともにエトナ映画の設立に参加するが、1935年(昭和10年)4月にはこれも解散し、4度目の実演旅行に出る〔。この年に高木と離婚した〔。1936年(昭和11年)、中川紫朗が監督した2作に出演して引退した〔。 第二次世界大戦後、京都の上京区一条通御前通にスナック「よかろう」を経営していた〔。この店は1970年(昭和45年)ごろに閉店し、等持院西町の自宅に蟄居している旨の記述が、1980年(昭和55年)発行の『日本映画俳優全集・女優編』には存在する〔が、2002年(平成14年)に立命館大学が行ったマキノ・プロダクションの元助監督・菅家紅葉へのインタビューには、1967年(昭和42年)に死去した旨の記述が存在する〔。詳細は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「生野初子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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