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生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。 尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。事件の石碑は、京急本線生麦駅近くに残っている〔同所にて平成22年12月より首都高速横浜環状北線建設のため、一時東側近隣の旧東海道脇に仮移転した。〕。 == 事件の概要 == === 事件の勃発 === 文久2年(1862年)、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いたのち(文久の改革も参照)、勅使大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を出発した。率いた軍勢は400人あまりであった〔。 行列が生麦村に差しかかった折り、騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光目的で川崎大師に向かっていたとの説もある。 生麦村住人の届け出書〔『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より。ちょうど事件が自宅前で起こったため一部始終を間近に見た勘左衛門が、事件当日に神奈川奉行所に出した報告書である。〕と神奈川奉行所の役人の覚書〔神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書(嘉永文久年間見聞雑記)『薩藩海軍史』に収録〕、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記〔『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』より〕を突き合せてみると、ほぼ以下のような経緯を辿った。 行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が斬りかかった。 4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。 『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一撃をあびせたのは奈良原喜左衛門〔当時京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の実兄宛書簡は、喜左衛門の弟の奈良原喜八郎としている。ただし、行列の先を行っていた宮里孫八郎が事件の十数日後に鹿児島の家族に宛てた書簡は、当番供目付だった兄・喜左衛門の名を挙げており、久光の駕籠側にいた松方正義も証言を残しており、リチャードソンへの一太刀目が兄の喜左衛門であったことが今日において定説となっている。〕であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬った(のち久木村は同事件の回顧談を鹿児島新報紙上に詳細に語っている)。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりでとどめをさしたのは海江田信義であったという〔主に海江田信義の著作と直話に基づく話のようである。〕。なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「生麦事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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