|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 次 : [つぎ] 1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station
田中 吉次(たなか よしつぐ)は、戦国時代の武将。 == 生涯 == 田中吉政の長男として誕生。 父・吉政同様、豊臣秀吉に仕えて馬廻となり、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍した。のち父・吉政が近江八幡城主となった秀吉の甥・豊臣秀次の老臣筆頭に任ぜられると共にこれに仕え、一字を拝領して吉次と名乗る。奥州仕置においては本願寺の坊官・下間頼廉らとともに奥州一揆の中核をなす浄土真宗寺院と緊密に連絡を取り、奥州の争乱が畿内に波及しないよう務めた。父・吉政が岡崎城主だったとき、西尾城を治めた話もある。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは父と共に徳川方に参陣し、父・吉政は功績によって筑後国主となる。翌慶長6年(1601年)、家康より入国の為の暇をもらうと、まず吉次が吉政の入国に先んじて柳川に向かった。3月18日付けの大久保忠隣からの吉次宛返書が残っている。芳次、博多の酒などを秀忠とその側近の大久保忠隣に送ったらしく、それに対する礼状である。後に父と不和になり柳川より逐電したため廃嫡される。 元和3年(1617年)、京都にて病死。家督は弟で四男・田中忠政が継いだ。 なお、吉次の長男は吉勝民部、孫の田中政信は、江戸幕府将軍徳川秀忠に召し出され、210俵の旗本として存続した。忠政の跡継ぎがなかったことを受けて、忠政の母、側室の妙寿院が、1620年手紙を出している中、孫が二人居ると書いているが、その一人が吉次の孫との可能性がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中吉次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|