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田中喜左衛門 : ミニ英和和英辞書
田中喜左衛門[たなか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [もん]
  1. (n,n-suf) (1) gate 2. (2) counter for cannons 

田中喜左衛門 ( リダイレクト:田中権内 ) : ウィキペディア日本語版
田中権内[たなか ごんない]
田中 権内(たなか ごんない)は江戸時代中期、伊予大洲藩砥部郷(今日の愛媛県伊予郡砥部町)の大庄屋である。
大洲藩主加藤泰興の時、御代役の功により扶持方五人分城の向新田他山林四箇所拝領 砥部の大巾着と異名された傑物である。
宮内村に残る田中権内の墓碑には黙翁道渕覚位 正徳癸巳三年(1713)五十九歳と記されており、菩提寺の理正院過去帳にも正徳三癸巳歳「黙翁道淵信士」と記録がある。
田中権内の家系
南海道伊予国浮穴郡砥部荘料澤の初代城主中村左近将監越智経孝にて代々居城 天正年間中村主殿守経房の代 四国征伐に依り開城す
其後松山藩主加藤左馬介嘉明より、中村喜三衛門が十七ケ村ノ庄屋十六人 組み頭二十五人町 年寄一人 五人組四十八人の大庄屋拝命以来 職を世襲す
 
與右衛門尉ー庄右衛門ー田中文内(喜三右衛門)ー田中権内ー田中治兵衛ー田中喜三右衛門義貴(大庄屋-御普請方下奉行)ー新八郎ー喜右衛門 以下略す

大森彦七盛長供養塔
正徳二年(1712)田中権内が先祖の主家にあたる大森彦七盛長を敬慕し庄屋田中 治兵衛及び五本松小助、川井忠左衛門の協力により供養塔を建立した。
現在供養塔の塔身は三つに折れた物をセメントで繋いであり碑面には『長盛院殿大森彦七居士神儀』と刻まれていたと言うが現在は風化が激しく読めない。基台の文字も今は判読困難である。その碑文は見られることも少ないと思われるので、ここに記しておく。
正面  長盛院殿大森彦七居士神儀
台座左 伊予浮穴郡砥部庄茲田中氏権内居士蓋為先君故生敬慕之思勧群衆倶戮力
台座裏 彦七昔日就于花園地建塔以奉供養請銘日 超出六合 武勇大振 忠功正信
台座表 声莫不到 楠霊怪化 守剣悩身 終縁仏乗 自他離塵 麻山嗣法沙門 南堂光書
台座右 施主砥部麻生田中氏権内 大庄屋田中治兵衛等 勧化五本松小助川井忠左衛門
    正徳二年壬辰臘月吉旦造立焉 
解説
伊予浮穴郡砥部庄茲に田中氏権内居士蓋し先君たるの故に敬慕の思ひを生じ群衆に勧めて倶(ともに)に力をあわせ昔日花園の地に就きて以って供養し奉り銘を請う。
六合にぬきんでし、武勇大いに振るう忠功信声到らざるなし楠霊の怪化剣を守りて身を悩ます終に仏裏に縁りて自他塵なる離る。(六合:東西・南北天地天下 正信:仏道にかないし正 声:名声 楠霊:楠正成の霊)
正成を討取って大功を立てた彦七が楠正成の霊に悩まされる話
彦七は狂乱状態になった処仏道修行により本復することを美文で綴っている。
供養塔は愛媛県砥部町指定文化財に指定されておる。
田中家と和田家の関係
田中権内の嫡子田中喜三右衛門義貴は正徳三癸巳歳にはまだ十歳であった為、供養塔にも記されている縁戚の和田家治兵衛が佐礼谷村の庄屋職を弟伝五兵衛に譲って砥部大庄屋田中家に夫婦で入籍し義貴が成人するまでの間の後見をし、後に治兵衛は和田家庄屋に復帰している。したがって、田中家には夫婦による養子の記録はあるが法名は記されてはない。
和田家は、先祖河野氏族和田山城主越智通勝、久米郷岩伽羅城、石井村衣掛城兼帯、八代孫高市村庄屋ト成リ享保五歳佐連谷村庄屋と成る其後嫡子譲リ砥部宮内大庄屋田中養子ト成」 大洲領庄屋由来書にあり。
田中権内の先祖 は上記にあるが、中村庄右衛門ノ代、先祖河野氏族岩伽羅衣掛城和田三河守子孫麻生庄屋田中義正養子参り姓を田中と改め、田中権内に至り 両家は縁戚関係にある。
其の他の記録
砥部騒動は一般に田中権内とされているが本来は権内の嫡子田中喜三右衛門義貴(1703年~1784年)の代である。
砥部騒動は寛保元年(1741年)に起きているが、権内は正徳癸巳三年(1713) 五十九歳で他界しており、アリバイが成立。注意すべき事は、砥部騒動と入会山紛争が混同されている場合が多い。
名前について
田中家は苗字帯刀が許されていたが功名のあった喜三右衛門や権内が代々屋号の様に呼ばれたり、また写本の時にも誤字により誤解が生じたと思われる。
喜左衛門や與左衛門の名は系図には記録なし。
明治維新によって新政府が新たに戸籍を編纂し、旧来の氏姓と家名苗字の別、および諱と通称の別を廃止し国民全員が姓名を公式に名乗り改名の習慣が禁止された。
明治八年二月、「平民名字必称義務令」を布告して強制的に家名を付ける事を義務ずける。
供養塔の建立は
先君たるの故に敬慕の思ひを生じ・・・とあるが、そもそも庄屋達には様々な役得や負担免除などという特権が与えられていたが、当時様々に起こってきていた彼らに対する批判に抗するために、全国的に、自分達の立場に対して明確な理論化を求めるようになってきていた。その結果、彼らは支配の根源を歴史に求め、それが国学の隆盛に繋がっていったのであるが、そうした流れに乗って、田中家の行き着いた先が、大森彦七だったからである。
== 関連 ==

*大洲藩



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「田中権内」の詳細全文を読む




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