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田中宿(たなかじゅく)とは、長野県東御市にあった北国街道の宿場。 == 概要 == 田中宿は慶長(1596年 - 1614年)に真田氏の庇護の下、周辺の集落から当時禰津に住む、地元の小田中氏を中心に近郷3村を集めて成立させた。 北国街道の宿場として設置された田中宿と海野宿は合宿といって両方で1つの宿場の扱いだった。 田中宿は本宿として本陣・脇本陣がおかれていたが、海野宿は間の宿として半月交代で伝馬役のみを行い本陣はなかった。 しかし、寛保2年(1742年)8月1日の「戌の満水」と呼ばれる大洪水により、信濃国の千曲川流域全域に大被害をもたらし、約2800人の死者を出した大災害となった。田中宿は烏帽子山麓の所沢川からの鉄砲水でほとんど壊滅状態となり、この時の田中宿の被害は死者68人、負傷者59人、流失家屋120軒、残った家は29軒と伝えられている。 田中宿は、他の千曲川流域よりも甚大な被害で田中宿よりも比較的被害の少なかった海野宿に宿場の機能の全てを譲り海野宿を本宿とした。 その後、田中宿は立ち直り、宝暦11年(1761年)と文化3年(1806年)の交渉により「本陣は両宿に設置し、大名旅人の宿泊は客の意向次第。伝馬役は半月交代」と海野宿と合意して宿場を再開する。完全に再生を果たした天保(1830年)頃の田中宿には茶屋(6戸)、商家(14戸)、旅籠屋(10戸)などがあったとされる。 しかし、慶応3年(1867年)に大火が宿場全体の約6割を焼失し宿場の殆どが燃え去った。これらの数々の災難から田中宿に泊まるのを避け、隣の海野宿に泊まる大名旅人が多かったとされる。 明治時代になって本陣と脇本陣は廃業したが建物は、当時の門のみを残し「明治天皇ご休憩の碑」が現在も残っている。宿場機能が失われてからは、製紙業で発展した。 更に海野宿北側に計画中であった鉄道駅の計画が、当時蚕種業が隆盛を極めていた海野宿にとって汽車が排出する煙で桑が侵され蚕に害になるとされ、猛反対の運動を起こされたため鉄道駅設置の第二候補地であった田中に建設が決定し、明治21年(1888年)12月1日には田中駅が開業され鉄道交通網の発展とともに当町の商工業も飛躍的に発展向上した。 現在は田中商店街として東御市の中心として発展している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中宿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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